日本麻雀百年史 その5
日本の寧波は鎌倉
二、三の文献では、鎌倉派雀士の研究心旺盛な活動については述べているが、その来歴について記したものはない。ただひとつ手塚晴雄だけがその来歴、そもそものところを『南は北か』に書いている。
東京・神楽坂のカフェープランタンに出入りする前の時期である。
大正13年(1924)、鎌倉海浜ホテルの香川支配人からこの地に古くから在住している寺木定芳に誘いがあった。
『中国の麻雀というゲームの道具をもっている三共重役の長期滞在者だが、一度皆さんでお出で下さい』
三共重役というのは河野寛という実名がわかっている。寺木定芳は前にも出てくるが、歯科医で文献などでは「ドクトル寺木」と記載されている。ここでは泉鏡花の弟子であったことも付け加えておこう。麻雀の方ではのちに日本麻雀連盟の第八代総裁になる人だ。
この誘いにのったのが、久米正雄、里見弴だった。世に言う鎌倉文士が鎌倉派雀士となる機縁はこうして生まれた。
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