【諺】黙して満貫、崩れて無間(むげん)
雀荘の夜は深く静まり返り、牌の擦れる音だけが響く。この場所には言葉は少ない。誰もが自分の手の内と静かに向き合い、心の内を読み合っている。私は今日の勝負に心を定めた。相手の動きを探りつつ、こちらの意図は悟られぬよう慎重に牌を重ねていく。リーチの誘惑はあるが、ここは堅実に「ダマテン」で行く。勝利を確信した瞬間、「ツモ」と小さく告げる。この静けさの中に、ひっそりと訪れる満貫の達成感。雀荘の空気は揺るがず、私はただ一人静かに勝利を味わう。
しかし、麻雀とは時に無慈悲だ。次の局では、私は再び強気にリーチをかけた。自信を持ったつもりが、ふとした瞬間、冷や汗が流れる。何かがおかしい。手牌を見直すと、そこには信じがたい現実が待っていた。フリテン…。一瞬で心の中が暗転し、深い虚無感が押し寄せてくる。
仏教には「無間地獄(むげんじごく)」という概念がある。これは、終わりなき苦しみを象徴する言葉で、一度堕ちるとそこから抜け出すことは極めて難しい。麻雀でのフリテンや見落としによる失敗は、まさにその無間のような絶望感を生む。「無間(むげん)」という言葉は、この大きな落差や虚無を強く印象付ける。
勝負の世界では、慎重に積み重ねたものが一瞬で崩れることがある。黙して勝利を収める静けさの中には、一歩間違えればすぐに奈落へと落ち込む危険が潜んでいる。「黙して満貫、崩れて無間」──この言葉が、今の私の胸に深く刺さる。
麻雀とは人生の縮図のようだ。どれだけ慎重に歩みを進めても、そこには常に崩れ落ちるリスクが存在する。そして、そのリスクを理解しつつも、我々は牌を積み重ね続ける。無間地獄のような深い絶望を感じても、再び新たな局面に向かう。それが麻雀であり、人生というものなのかもしれない。私は次の牌を掴み、新たな一歩を踏み出す準備をする。
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