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【読み切り短編】緩牌(かんぱい)!雀荘の心得

石田は、いつものように夜のオフィスを出た。中小企業の営業職に就いて10年目。今日も仕事の終わり際に取引先との交渉がうまくいかず、重苦しい気分が心に残っている。頭の中では、なぜあの時こう返せなかったのか、と自分を責める思考がぐるぐると回っていた。

エレベーターの扉が閉まる音を背に、彼はスマホを手に取る。そして、迷わず雀荘「風待ち」の予約ボタンを押した。今夜も、静かに牌を握る時間が自分を救ってくれるはずだ。

「いらっしゃい」雀荘に入ると、店主がいつものように軽く挨拶をしてくれる。そこには、長年通っている常連たちがいて、静かにゲームを楽しんでいた。石田は、いつもの席に座り、牌を並べ始めた。麻雀を打つこの時間だけが、彼にとっては一日の疲れをリセットする瞬間だ。

彼の周りの雑念は、次第に薄れていく。手の中の牌に集中することで、頭の中がスッと空白になる。これが石田にとって「雀荘の心得」だ。無言で繰り返される打牌の音が、まるでヒーリングミュージックのように心を落ち着かせていく。

「リーチ」と、相手が軽い声で宣言する。石田は一瞬顔を上げたが、すぐにまた牌に視線を戻した。勝敗は重要ではない。この静かな時間をどう楽しむか、それがすべてだった。

しかし、その夜のゲームはいつもと違っていた。静かに打っていたはずの自分の手が、ふとした瞬間に崩れた。ミスをしてしまったのだ。思わず眉をひそめる石田。頭の中で、今日の取引先とのやりとりがフラッシュバックしてきた。

「ああ、また同じだ」石田は、ミスをした自分に対する苛立ちが心の奥から湧き上がってくるのを感じた。仕事でも、そして今でも、結局は自分が追い詰められてしまう。そう思った瞬間、彼は小さく牌をテーブルに置いた。

「負けてもいいさ」そう自分に言い聞かせながら、ふと目を閉じる。深い息をつき、再び牌を手に取る。この時間は、結果ではなく、プロセスを楽しむためのものだったことを思い出した。

ゲームが終わり、石田は席を立った。負けたけれど、それはどうでもよかった。牌を握るその瞬間、彼は一日の疲れをリセットし、心を落ち着かせることができた。明日もまた仕事が待っている。だが、静かに「風待ち」に戻ってくればいい。それが彼の「雀荘の心得」だ。

雀荘を出ると、涼しい夜風が心地よく、石田は少しだけ軽くなった足取りで家路に向かった。

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