
軽率にアラスカに行った話1
そうだ、アラスカ行こう
なんかもーどーでもいー。
年齢を重ねるにつれて、そう思う頻度が高くなってるぼくです。小学生から高校・大学生くらいまでは「負けるもんか!」って、逆境に立ち向かう「お前GOETHE[ゲーテ]読み過ぎだろ?」みたいなパッションを持っていたんですけど、就職した瞬間見事に消失しました。
自分自身の無能さ、スペックの低さ故にブラック企業にしか就職できなかったのが原因ですけど、すり切れるだけの日々の中で、色んなことが本当に「どーでもいー」としか思えなくなったんですね。24時間のうち24時間オフィスにいるような状況でしたもの(笑)
そんな時期、すげぇ疲れてる筈なのに眠れなくなって、味覚もなくなって、無意味に無駄に涙が出てくるので、これ何だ?花粉症か?と病院に行ったらメンタル系の受診を勧められました。そこで「あー典型的な病み具合ですねぇ」と診断されました。
病んでまでやる仕事じゃねぇや、アホくさ過ぎるし会社辞めるかー、その前に吸えるだけ会社からカネ取ってやるぜ!っと、診断書付の休職届を出しました。もちろん会社はふざけんな!クビだ!って言ってきましたが、訴訟をチラつかせると渋々了承しました。こういう時に身内に弁護士いると便利です。
まぁハナから辞める覚悟の休職なんで、解雇なら解雇で本当に訴えても良かったんですけど。
そういう訳で実家に戻って、朝起きて散歩→たまに病院→プール→温泉→おかん飯で泥酔→薬飲んで就寝という、健康的な毎日を送ったんですよ。おかげで徐々に体調は復活してきました。
しかし飽きる。朝5時に起きて、10時前に寝る生活は飽きる。飽きたのでどこか旅に出たいと思いました。医者に相談すると「そいつはいい!」と言われたので、さっそくどこかへ行こうと決めました。自室で地球儀をくるくる回転させながら、さてどこに行くべか?と思った時に目に入ったのが、アラスカでした。
たったそれだけの理由でぼくはアラスカ行きを決めたのです。
諸々の準備に約一週間を要しましたが、旅に出ようと決めた翌々週の早朝には、ぼくは関西国際空港に立っていたのでした。ある年の8月半ばのことでした。
荷物がなくなって短パンで辿り着くアラスカ
冷戦時代(いつよ?)は日本からヨーロッパに向かうためにアラスカのアンカレッジを経由していたようですが、今は西に向かって飛べます。そういう訳で日本からアラスカまでの直通便はもうありません。まずはカナダ西側の都市バンクーバーまで行き、そこで乗り継いでアンカレッジを目指します。
今回は一カ所に長期滞在して、のんびりしようと思っていました。そういう訳でホテルもあらかじめ日本で予約しておきました。ホテルやレンタカー航空券の類いは、仕事で付き合いのあった某JTBの営業であるマツダさんにお願いしました。同年代で飲みに行ったり、割と大きな仕事を一緒にしてきたので信頼もしていた営業さんです。

何より彼は旅のプロ。安心しきってぼくは機上の人となりました。乗ったのはANAのコードシェア便、エア・カナダです。数時間後、ぼくは無事にカナダバンクーバー国際空港に降り立ちました。乗り換え便は60分後に出発する同じくエアカナダです。
うん?60分?
ここに来て初めて、アタマの悪いぼくも気づきました。60分で荷物を載せ替えられるのかしら?と。
トランジットですが簡単なアメリカの入国審査(?)があったように思います。カナダなのにアメリカ?そいつに20分近くを要しました。次の搭乗口は歩いて10分近くかかりそうです。ダッシュで向かうと、既に待合室のベンチに人は皆無で、ゲートにいた職員のお姉さんに「ミスター○○か?」と訊かれました。そうだよと応えると「急いで乗って!」と言われました。
前方一カ所だけのドアから乗り込んだぼくですが、比較的小さな機内はまさかの全員着席状態。陽気な男性CAがウェルカーム!と叫んで、なぜか乗客みんなから拍手と笑顔で迎えられました。
別のおばちゃんCAに、席を替わってほしい、最後尾だけれど良いか?と訊かれ、後ろまで案内されるんだけど、ハイタッチしてくる婆さんとかサムズアップする爺さん、腕を叩いてくる人とかいて、何だオレ代打出場したメジャーリーガーか?と思うアリサマでした。
乗客は全員白人の老人。ヤングはもちろん、中年もいない謎。一瞬老人のツアーに紛れ込んだのか?と思ったけれど、どうやらこの時期にアラスカ観光なんか出来るご身分なのは、リタイアした世代だけっぽい。
最後尾の席になったおかげでフリーランチが貰えなかったものの、窓から雪を頂いたロッキー山脈を眺めていたら、数時間で目的地アラスカアンカレッジ国際空港に到着しました。
アンカレッジ国際空港は全体的に薄暗い雰囲気で、これから北極圏の旅を楽しむぜ!みたいな感じではないなってのが第一印象でした。手荷物カルーセルに向けて歩いていると、ベンチに座っている若い白人女性がいました。ちらっと見たら泣いていて、ああ泣き顔も画になる美人さんだなと思ったことしか、空港の記憶はない気がします。

もちろんぼくの荷物はいくら待ってもターンテーブルに載ってきません。ずーっと待っていたのですが、とうとうコンベアは動きを止めました。
バゲージクレームに行き、荷物ないねんと告げると、受付の美人職員さんが書類を作ってくれました。発見したらホテルに届けるけど、大丈夫?と訊いてきます。

大丈夫の意味はすぐに分かりました。財布やパスポートはもちろん持っていますが、ぼくの格好は短パンにTシャツ、機内の冷房対策に持っていたペラペラのパーカーだけでした。あとは手荷物として持ち込んだカメラとレンズ、ノートPCが入ったバックだけです。
お姉さんは「もし服を買いに行くなら電話して。仕事は17時で終わるから!」と電話番号と名前を書いたメモをくれました。日本人は幼く見えると言いますが、ぼくも子どもに見られていたのでしょう。

礼を言ってメモを受け取り、空港を出ます。空港内の窓から雨だと思って見ていたのは霙でした。びっくりするくらい寒いです。大阪だったら11月か12月のイメージ?「まだ8月ぞ?」と呟いてタクシーに乗り込みます。ホテルに向かいながら、マツダ、帰ったらしばく!と心に誓ったのでした。