諸法無我って現代社会に反抗してるように見えるけど、救い
これが教えに入っていると仏教ですよ、というエッセンスは様々ある。
とくに三法印、四法印といって、3つか4つにまとめられている。世の真理、現世のシステム・設定として、以下になっているんだ!と仏教は看破した。
(一切皆苦:Everything is 自分には、ままならない)
諸行無常:Everything is 変化する
諸法無我:じつは、わたし自身には「わたしって〇〇なんです」という根拠を持っていない
涅槃寂静:1〜3がよーく分かっているくらい波たたない、がよい
3.諸法無我:じつは、わたし自身には「わたしって〇〇なんです」という根拠を持っていない
しょほうむが、と読む。
たとえば、電車でひとり旅にいくとする。日本地図にダーツを投げて、ここに決めた。駅に降りたときに転んで頭を打ってしまう。意識が飛ぶ。
荷物は置き引きにあってしまい、手ぶらになってしまった。ポケットのなかはすべてからっぽ。
気が付いたら記憶喪失になっていたようだ。
ここはどこ、わたしはだれ状態。身分を証明するものがない、スマホもない。
やっと人を見つけたが、知り合いはいないし、なにがなんだか。わたしは記憶喪失の人間です、と説明することしかできない。
免許証やパスポートなど発行履歴があれば、警察に届け出ればわかるかもしれない。しかし「情報でましたよ。これがあなたです。身分証に届けている顔もあなたになっていますね」と言われても、ピンとくるかどうか。
これがわたしです。わたしはこんな人間です。…と自己開示する内容とは、わたしがわたしであると言い張っている内容でしかなかったのです。(それで社会は回ってるわけですが)
では社会的に、わたしの名前は**で、生年月日はいついつで、と証明されたとしても、それは本当のわたしなのだろうか。
記憶喪失になり天涯孤独、無一文。そんななか運良くどなたかに拾ってもらう。飯と屋根付きの仮住まい。知らぬどこかで懸命に働き、わたしがわたしなりに“鈴木太郎(仮名)”として生きていったあるとき、わたしは“鈴木太郎(本名)”となるかもしれない。なにが本当のわたしなのか…分からないことです。
一度も入院したことがなく、健康が取り柄です。
国家資格いくつも持っています。
英語、中国語、フランス語が話せます。
高校では物理の成績がいいです。
でも、仏教は言う。わたし自身には「わたしって〇〇なんです」という根拠がない。
わたしはひとかどの人間です、と求められる現代社会において、仏教の言うことは反抗しているように見える。しかし、実際問題、そうなのだから仕方がない。
そしてまた意外と、これが救いになる。
それはなぜか。
諸法無我は、個性を求められる現代社会において、意外と救い
「わたしって〇〇なんです」と固定してしまっては、その道筋から外れてしまうときが必ずくるわけだから、つらく苦しい。
健康はいつかは崩れる。
資格は期限もあるし、技術や記憶が伴わなくなる。
唖者を前にしたら手も足も出ない。
物理の成績がもっといい人がいる。
自分で自分を縛ってしまうことを自縄自縛という。わたしは〇〇だと定義しても揺らぐのが私たち。
であるならば、そもそも、わたし自身には「わたしって〇〇なんです」という根拠がない・・・を分かっていたい。肚の底から承知しておきたい。
そのうえで、自分は成績がいいとか健康がどうとか言っていれば御の字でありましょう。
ちなみに、諸法は無我で「諸法無我」。我という漢字がはいっているけれどもわたし個人のはなしではない。説明しやすいので上のように記したまで。
諸法とはもろもろの世の中に顕現している現象やすべて。それらは無我だという。それ自体にそれ自体なんですという根拠がない。つながりのなかにあるだけなのだ、となる。