時評2022年9月号
機会詠を詠むこと
機会詩、機会詠という言葉を目にするようになった。機会詩とは元はドイツ語の訳語「眼前の事象に触発されて、折にふれて感懐を歌った詩」とある。現在の詩形においては、震災、災害、近年のコロナ禍、ウクライナ問題を作品となる。時事詠と同義であるが、より個人に引き付ける、折に触れて自然に歌うことを目指す印象をうけた。
ウクライナ問題については関心が高く、「短歌研究」22年6月号では「正面から機会詠論」、「短歌」7月号の「戦火を目の前に」、「現代短歌」9月号「ウクライナに寄せる あるいは、戦争と言葉」の特集がある。
なぜ歌うのか、短歌研究の特集では三枝氏は新聞投稿がいち早く反応したことをあげ、「心を波立たせる世の動きへの反応」であるという。
クルーズ船もとより我は無縁なれど地球号には乗り合ひており 作倉羊子
ウクライナのニュースを背中で聞いてゐる爆撃音に包丁止まる 鹿野好子
前者は三枝氏が「日本経済新聞」より、後者は小池氏が「信濃毎日新聞」より引用する。
いずれも報道が始まって間もないころの作だ。「地球号」は使われた単語であるが、目に見えないウイルスから逃げようがない閉塞感、怖さを感じる。「背中で聞く」爆撃音により、聴覚から思いがけず本能的な怖さを感じるのを「包丁止まる」と表現している。新聞投稿は機会詠の場の最たるものと思う。
中川佐和子氏は「社会的な事象に無関心なままでいることができない」とし、「生きている「われ」が、この時代において今起きていることを言語化しておくことが大切で、それによって自分という不確かな存在を考えていく手掛かりにしようとしている」という。
波がここまで来たんですかといふ問ひが百万遍あり百万遍答ふ 梶原さい子『ナラティブ』
陽性者は恥じよ恥じよと迫りくる舌をもたざる声群がりて 吉川宏志 現代歌人協会編『二〇二〇年コロナ禍歌集』より
きはだちて真白きことの哀れなりわが学院の焼跡の灰 与謝野晶子『瑠璃光』
特集の中では「われ」の体験や感覚、表現の歌が多く引用されていた。
類歌、報道の論調やフレーズをそのまま歌にしない、倫理の歌にしないという課題、個人に引き付ける、修辞の工夫の重要性は時事詠・社会詠と同じだ。
機会詠について、高野公彦は極論としながら、時事に触れて「こんなことを思っていた人がいた」という小さな証明であれば、それでいい」という。
社会の事象に対して折々に声を上げる側面がある機会詠を社会詠と言わないことに疑問があったが、小さな証明であるなら、背景(地)の歌として幾多の歌集に収まり、地層のようにある年代の証として残ればいいと思う。
論の中で、ウクライナの象徴として「麦」「ひまわり」戦艦ポチョムキンの「乳母車」の安易な多用が危惧されていた。しかし「時鳥」のように歌語として機会詩の世界に残るのかもしれない。
(佐藤華保理)