20代はMomと共にある!
この文章をもとに、Podcastで話しました。
時代の空気をキャプチャーしながら、同時に自分の心も照射してくれているような気持ちになるアーティストがいる。
ある人にとってそれは佐野元春であり、ある人にとってそれは小沢健二であり、ある人にとってそれは七尾旅人であるかもしれない。あるいは…。
歌う言葉に共振しながら、打ちひしがれ、同時に救い出される。
僕にとってそれは、Momなのだ。
2021年。
少しずつ聴く音楽の幅が広がっていおり、いろいろ音楽を掘っていた頃。
YouTubeにMomの『ワールドイズユアーズ』のMVが出てきた。
それまであまり聞いてこなかったフォークソングの様子を纏って、淡々とした曲調に印象はさほど残らなかった。
YouTubeの特性上、一度聴いたら何度も表示される。
促されるままに、なんとなく、何度か聴いていた。
次第に歌詞を聴くようになった。
なるほど。
分からん!!
ツッコんだ時にはもう、Momの周波数にチューニングが合い始めていた。
それから間も無くアルバム『終わりのカリカチュア』がリリースされた。
家で課題をしながら、一日中、何度も何度も狂ったように聴いた。
起きているのか寝ているのか、ご飯を食べているのか歩いているのか、いまこの瞬間に一切の現実感がなく、ちょうど世界のリアリティが完全に手をすり抜けていた頃だった。
ひょっとしたら「身体に通ってた血が全て抜かれたみたいに そこから見た景色は嘘っぽかった」とはこんな感覚のことかもしれない。
退廃的で、とにかく退廃的で、それでいて最後には優しさというかほのかな希望が見えるMomの曲が救いになった。
僕は歩くしかなかった。
家にいても何もできないし、「何かがあるかもしれない」と思って外に歩きに出た。
しかし、世界に何も求めていなかったので、世界は何も与えてくれなかった。育った場所とは比べ物にならないほど明るい街を歩きながら、そこには、苦しいほど何もなかった。
パンデミックの真っ只中で、社会は少しずつ「元」に戻っていることをテレビは発信し続ける。一方、自分の世界=ワンルームの生活は一向に変わる気配はなく、ただ「社会」だけが「元」に戻っていく。その「社会」に自分はいないのだと強く感じた。何もかもが崩れ去りそうなギリギリのところにいながら、オリンピックは強行開催され、その直前には内面化してしまうほどの厳しいバックラッシュが吹き荒れた。
自分の世界=ワンルームを少しでも広げるために、自分なりに勉強したり興味を広げたつもりだった。これまで見えていなかったことが少し見えた時だけは、世界が鮮やかに見えて生きていることに幸福を感じた。
しかし、どれだけ見えるようになったとしても、自分には分からないことがこの世界には数えきれないほどある。
無力感の前に打ちひしがれた。
でも、「これまで見えていなかったことが少し見えた時だけは、世界が鮮やかに見えて生きていることに幸福を感じた」。そういうことでいいのだ。
同じ葛藤を抱えた人がいた。
こんな風にして一人になって本を読んでいると、今の世界にとにかくうんざりしたりする。中沢新一の連続講義が5巻にわたって展開された『カイエソバージュ』を読みながら、流動的知性に魅了され、憧憬を抱き、可能性を感じたりもした。
日常のノスタルジーが、アニミズム的なものが、ナチュラリズムが、何かこの陰鬱とした生活を打破してくれるのではないか。これまでの生活を一切変えるつもりもないまま、安易に期待することもあった。
まさにそのことが歌われていた。
Momはいつだって諦念にまみれてうなだれながら、でも確実に目だけは前を見ている。
その姿に、途方もなく、救われるのだ。
そう宣言した2021年のMomに、僕はいたく共感していた。
とはいえ究極的にはアルゴリズムの外にもフィルターバブルの外にも行けないし、自分ができることも大してない。「個性」だってないし、強い主体にもなっていないし、人生の意味づけなんてない。どうしたってやりたいことなんてものもない。
あらゆる諦念に押しつぶされそうになったり、押し返したりを繰り返している。
Momの音楽は、JPEG MAFIAやFrank Oceanなどを思わせる音作り(詳しいことはわからないので全然違ったらすみません…)や音の差し込みをローファイで仕上げた2019年までと、ハイファイに移行してよりヒリヒリとした切迫感を増し始めた2020年以降で随分と印象が違う。どちらも音楽性は通底しているのだけど、2020年以降のMomはまだ聴いたことがない音楽を次々に切り拓いている。
それでいて、時代の空気をキャプチャーしている。というより、当事者としてすごく苦しんでいるんだろうなというのがひしひしと伝わってくる。知的で感受性が豊かだからこそ、見えてしまうことキャッチしてしまうことが多いのだろう。身に迫る歌詞や音があまりにもリアルで、恐怖さえ感じる。
そう。Momの曲は怖い。
先日リリースされたアルバム『¥の世界』も、星新一を読んでいる時のような奇妙さが常に漂い、引っ張られて身体の中にある何かが目を覚ましてしまうのではないかという恐怖が湧き上がってくる。
ザ・フォーク・クルセダーズの『帰って来たヨッパライ』や星新一のような奇妙さというか、、。
現代は誰もが相互評価ゲームに乗るかゲームから解脱するかの二択を迫られているし、見せかけの「解脱」にみんな気づき始めている。
やってることは結局、太宰治の『斜陽』と同じじゃないか。
ゲームの外部にいるように見えたって結局、海の表面の波にすぎず、「自立している」ようにしか見えない。
それでも「自立しているように見える」人に勝手に劣等感すら感じてしまう。
ゲームから解脱できない自分と、ゲームの中で「解脱しよう」というムーブだけが空回りしているピエロ性。
自身の最も「そうであってほしくない部分」に鋭く矛先を向ける…
この、いまこの瞬間の!ゲームにうんざりしながら、決して解脱できない諦念がただひたすらにある。
徹底的に自己批判を続けるMomも、どこまでも冷徹に現実を捉え、そして内面化し、諦念が漂うのだけど、今作はさらに足を踏ん張って、諦念にかまけないぞ!という矜持を感じる。
どれだけ「自立している」ようにしか見えないんじゃないかという諦念に襲われても、それが自分の意図したものとは異なる大きな文脈に回収されたとしても、やり続けるしかないのだ。諦念を抱いている奴は「わかってる奴」に見えがちだから、みんなやりたくなっちゃうけど、自分に向いているその矛先が目の前の人に向いてしまうかもしれない。(いや、既に向いている!)
こうやって自立する!をその都度、やり続けるしかないのだ。(自立とは何か!)
こういう状況への自分なりの解答として、ここ数年は文章を懲りずに書いてきた。
それは決して、誰かに誇れるものでも、お金を生み出すほどのものでも、新たな価値転倒すらもない、読む価値もない、なんなら書く価値すらないものかもしれない。
それをさらに人目に晒すという蛮行をピエロ性を伴って今もなお続けている。
あらゆるものに意味と価値と正しさが求められる時代に、そんなものから遠く離れた「誰のためでもないモンタージュ」を、それがどれだけ捉えどころのない様相でも切り取り続けることで、僕たちはなんとか自立(のフリ?が)できるのではないか。(そういうことにしてくれ!)
ここまで文章を書いたのは2022年11月だった。今これを書いているのは12月26日。先日、池田晶子の『事象そのものへ!』<法蔵館, 1991>を読んでいた。この本の序章「哲学への開放 『知識人』批判から」という文章がいたく面白かった。
実際に書かれていることとは違うかもしれないけれど、僕はこの文章を次のように読んだ。
「あんたら知識人の言う『闘争』は結局、言葉の上での詭弁でしかなくて、闘おうと闘わなかろうと死ぬ時は死ぬし、そもそも「闘っている主体は何か」という問いが未解決じゃないか。ヘーゲルもニーチェもハイデガーも小林秀雄も現象ではなく『在る』ということ自体がよく分からん!と考え続けたのだから、我々もそこから始めなければならない。」
なんだかこれを読んでスッキリした。それは、代弁者として言いたかったこと言ってくれた!みたいなスッキリではなく、池田晶子がよく言う「『どう生きるか』ではなく『生きるとは何か』を考えろ」ということの意味が少しわかった気がしたのだ。
資本主義の矛盾とか、批評的な言葉とか、自意識とか、そういうものが自分を苦しめて、より正しさを求めて頭で闘う生活、僕はそこに一瞬陥ったし、Momもそこに苦しんでいる人だと思う。
「『本が好き』なんじゃなくて『本が好きな自分が好きなんでしょ』」とか「『丁寧な暮らし』をしたいんじゃなくて、『丁寧な暮らしをしている自分が好き』なんでしょ」とか、そういういかにも「本が好き」で「丁寧な暮らし」をしている人の言葉は、心を殺しにかかってくる。
じゃあどうやったら「本が好き」になれるの?
「丁寧な暮らし」ができるの?
自立できるの?
そんな「犬や猫のような現実味のない仕草は僕らにはできない」のかもしれない。
少なくとも、「差異の差異」みたいな感じでちょっとづつずらしては言葉だけで正しさを求めているだけでは。
思想やらイデオロギーやらだけを追い求めて「どう生きるか」だけを考えていたって、結局、言葉のゲームで最終的には絶対に立ち行かなくなって言葉に殺されるんだ。
それこそ、「生きる」ことには到達しないんだ。
生きるとか死ぬとか老いるとか、生き物としての人間の摂理に直面した時、「どう生きるか」は通用しなくなるんだ。
「どう生きるか」と「生きるとは何か」はもちろん二項対立でない。
「生きるとは何か」を考えた先に立ち上がってくる「どう生きるか」は、「どう生きるか」だけを考えているのとはまるで違う地平のはずだ。
池田晶子がよく言う「『どう生きるか』ではなく『生きるとは何か』を考えろ」とは、こういう意味なのかもしれない。
そして、改めて『¥の世界』を振り返ると、この過程そのものだし、『勝手にしやがれ!』は「哲学への開放」のまさにその現場なんじゃないかと思う。
『斜陽』の登場人物が池田晶子を読んでいたなら…と思わずにはいられない。
学びも思考も歴史も螺旋状なんだなぁ。
(おわり)
最後まで読んでいただきありがとうございます。ウェブ版『あの日の交差点』、Podcast『あの日の交差点』も覗いていってみてください。