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ことばの学習に手話を使う

ことばの学習ってきこえる子だったら、1歳半で自然に喃語を発するようになり、そこからもの一つ一つのことばを親から教えてもらうように耳に入って自然的に学んでいくだろう。

 では、きこえない子だったらどうだろうか。これは、聴覚のきこえで判断するときにはわかるので、発覚時期はバラバラである。決まった時期はないが、医学的にいうと新生児スクリーニング療育が以前より進むようになってきたため、早くて6ヶ月の時点で「耳がきこえない」と診断されるケースもある。この時、保護者は落胆してショックを受けるあまりに療育に対する情報に過敏になってしまうことの悩みは聞いたことある。

 筆者は、ある4歳児のもつ保護者とお話しする機会があった。その時は聾学校勤務していたので、あくまで一つの考えということでやりとりしていた。あれから数年後、最近6歳児のもつ保護者とお話する機会があった。どちらも結局、同じ悩みを抱えていることが分かった。とはいえ、多くの保護者が必ずそう考えるのであろうと思い、今回のテーマとして執筆していく。

「いつから手話を覚えさせた方がいいですか。私が頑張って覚えてコミュニケーションを取ったけれど、子どもにことばを伝える方法って何か良いのか。悩みます。」
「手話が通じるということは分かるが、日本語も大事でつい声出たくなるんです。その子には声を出して会話することも慣れてほしいという考えで親でも意見がぶつかるんです。」

 このような声を聞くことは他の講演会やある集会に参加する方との交流でも多く聞きます。かつて私の親もそうだったと伺っており、きこえない子を育てることの苦労はとても大変ではないかと感じます。その上で今の日本は、残念ながら海外に比べてまだまだ乳幼児からの一貫した支援の体制が不十分な課題も多く山積みで遅れている現状です。真の教育現場として重要なろう学校でも正直、まだまだ専門性高い教職員がいるとは限らず、免許持っていても聴覚障がいに関する知識はまだまだ不十分ということも多くいる教職員でその指導を受ける環境が社会に出て通じないことも多くあるわけです。教員の専門性を指摘することは別にしておきますが、このような課題を青年部活動、ろう協会などのネットワークを通して聾学校の教えの間違いに気付き、学び直す卒業生も多くいます。(いわゆる世間でいう【大人の学び直し】と言っていい。聾学校現場の管理職や教育委員会には実感しない話である。)

 でも私はこう考える。日本という国の法的整備がこのような組織を作るとか、歴史的にそうなるのは仕方ありません。障がい児教育というのは、当たり前に簡単に答えは一つとは限らず多様化することであり<日本人>というのではなく、<人間>としてみんな理想なのは音声言語で生活しているからこそ多数派の中で生きるためにはきこえない子だろうが、発語はとても大事にしたいんだという気持ちが誰にでも強くある。でもやっぱり応じてくれない難しさはあることを受け止める必要がある。分かりやすくいえば、海外に行って日本語で強く通じるようにしていきたいと思ってもその国に住んでいる人からは、なぜ日本語を覚えなければならないんだ。通じるための言語が2つも覚える必要があるのか?というような違和感を持つことと同じことである。つまり、お互いにコミュニケーションを図るためには相手の実態そのものに合わせることが必要で歩み寄るという努力をすることで一つの武器として生きるために得られるものなんだと前向きに捉えばいい。

 だからきこえる人だったら、多くは第2言語に英語とかフランス語とか韓国語などの海外の言語(外国語)を勉強する機会があるわけである。学習指導要領改訂により、小学1年から外国語を学ぶようになってくる時代となった。筆者は、中学から始めたが今の小学1年が中学に上がる頃は英語の学力も上がってくる。中学では高校レベル同様に身についているかもしれない。国際化に対応した学びを身につける子どもたちが増える時代であろう。

と同じようにきこえない子にもそろそろ手話言語を向き合うための環境整備はとても重要ではないか。きこえないからこそ、音声日本語にこだわる教育環境というのは難題である。例えば、「たまご」「タバコ」とか「帰る」「カエル」「返す」というように口の形が似ていて音韻が変わると意味も変わってくることを正しく聞き取れるということは個人差による。家庭環境次第になるが、人生っていうのは、必ず通じない壁にぶつかることは出てくること間違いないと断言する。(筆者は大学に入ってぶつかった経験をしており、そこで<会話が通じる>のと<会話が通じない>ことの違いを理解したのである。)インデクレーションを経験したある人は、一般学校に入学する時点で壁にぶつかったという苦しい話を聞くことも多い。要するにきこえる人ときこえない人の会話における壁は全く共通であり、環境次第である。

 では、最初の悩みに戻るわけだか、ことばの学習においてどのようにしてほしいか。それは手話言語を通してことばの引き出しを増やしたり、意味をきちんと理解させることが一番適切なことと私は考える。その上でオンライン授業では、このことを重視とした授業実践を積み重ねてまもなく半年になる。手話言語と日本語を同時並行できちんと理解させることの授業実践を通すことで、ことばの力を伸ばすことができている実感は伝わってくる。(授業実践については、落ち着いた頃に執筆していきたい。本来なら教科指導において実践することができれば尚更、教師としての専門性としてしっかり果たせることの実感が湧いているはずだっただろう。)

 最初は指文字しかできず、親は音声言語。手話言語はぎこちない曖昧な手話表現であっても日本語との関連性がイメージつけないといった実態あるきこえない子が、ことばの学習をする上で意味を自分で主体的に考えさせるように教師は出来るだけ手話言語で意味を合わせつつ解説してそこでルール化して身につけることでことばの引き出しを増やしていく。ルール化しておけば、あとはきこえない子はあることばをどのようにして相手に伝えればいいのかという思考を巡らせ、主体的に考える姿勢が出てきてそこで手話言語で表現しようと工夫することでことばの成り立ちを見直すことができるように変わってきた。

 このようなことばの学習という授業のプロセス化というのは、小学生のうちに積み重ねるように家庭でも協力は不可欠である。そのために保護者においてもやっぱり手話言語に対する理解普及がとても重要であるし、早期に手話言語を学ぶための情報提供を与えられることの社会整備が求められる。そのために手話言語条例があって、最終的には手話言語法という国による施策で、日本全体が当たり前のように手話言語を認知できるような社会になってくれば、最初に挙げられた保護者の悩みも教育現場の課題も消える日は来るだろう。