今だから言える聴覚障がい教育③
私は、これまでの投稿の中で伝えている一貫性のテーマが手話に対する考えであるということを読んでいるみなさんは一つの受け止めとしているだろう。その原点は、以下の通りある講義で履修した際に提出したレポートが教員としての持っている姿勢であることを物語っている。 第3回目のテーマは、「聴覚・口話を活用して指導を行う際の配慮事項、また手話を活用して指導する際の配慮事項」とは何か。私なりの考察と感想を合わせて述べている。
なお、教員になったばかりの当時の背景であるために現在は違っている部分があるが、当時の背景を推察しながら読んで頂ければ幸いである。そしていつか現在の背景を踏まえた自分の変化を記述する内容も投稿していく予定である。一足先にYouTube「デフ・スタディの時間ですよ♪第10回」では手話言語条例との関わりを柱として伝えているので、ぜひ視聴していただき得ればと思う。
今回の講義を受け、「聴覚・口話を活用して指導を行う際の配慮事項、また手話を活用して指導する際の配慮事項」とは何か。私なりの考察と感想を合わせて述べたい。まず、私自身聴覚障害者であり、生まれつきから耳が聞こえないということがわかり、乳幼児時から札幌聾学校、高等聾学校でお世話になった。その時の教育環境は、聴覚口話法がまだ強く残る背景でした。今では、手話を活用した多様なコミュニケーションなどの保障が進んでいることに喜んでいる。
しかし残念なことがあり、手話の活用について複雑な想いを感じている。それは、聴覚障害者(以下、ろう者)の社会参加が成立できるのか。手話の定義について様々な異論が出ていることから、聴覚障害教職員の立場として指導するには責任重い感じを捉えている。私が一番、大切に考えていることは「聞こえないから話せない」ではなく、「話せるように手話を使うことも一つの方法であり、それがろう者の『言語』だ。」つまり逆にいうと、「少ししか聞こえない、少ししか話せない」のになぜ手話ができないのかという問題視をされる聴覚障害者がろうコミュニティーの中で存在し、同じ障害者同士なのに社会参加が上手く出来ているのと出来ない人の格差を生むことにつながっている背景が起きている。その背景の一因に「日本手話」という使い分けの異論が分かれていることにある。
北海道教育委員会によると「日本手話を活用する教員を増やすこと」を目標に研修プログラムを作成したり、手話キャンプの計画の実施など取り組みを先駆的に行われていることもあり、10年前と比べて教育環境が変わり、ろう児童生徒のコミュニケーション能力が上がり、学力向上にも少しずつ成果が出ている。それは、学力向上の中でも日本語の習得にはまだまだ課題があるほか、私が気にしているろう者の社会参加が成立できるのかという一点にある。
今後、指導する上での配慮事項として私は、「障害認識、自己確立」を目的とすることが大変重要であり、そのために手話や日本語などによるコミュニケーションの会得は、手段の一つであって日本手話だろうか対応手話だろうが、保護者が定義を決めるのではなく、本人自身が望ましい「手話」を教職員全体で実態把握し、その手話に応じた指導力の向上に努める環境整備を構築していくことがいいと考える。
最後にある本人が望ましい在り方というのは、学校評価では見えないために卒業した多くの方が社会に出てから問われてくる真価である。実に言うと、残念ながら不一致な声もあり結局は教職員一人一人が生徒と向き合っていないことの結果もある。このことから、学校評価を真に受けることなく、地域とのコミュニティーとの連携を深めるよう外部とのつながりを強くしていかなければならない時代になる必要はあると考える。
【参考文献】
「手話教育 今こそ!−障害者権利条約から読み解く−」 高田英一著(2012)