プロテスト〜麻雀との出会い〜②
■前回までの話は⬇︎から
八田さんとの出会い
そんな日々が続いたが何故だか父親は麻雀については一切教えてくれなかった。
と言うよりは教える暇もなかったくらいに忙しかったのかもしれない。
店内でお留守番をする事も度々ある中で代わりに良く面倒をみてもらってたのが常連客で父親の知り合いでもある八田さんであった。
八田さんはお店から車で15分くらいの場所で割烹料理店を営んでいる店主。年齢的には50は超えていたと思うが自身の定休日に遊びに来ていたという具合。
あまり直接麻雀を教えてもらったという訳ではないが、後ろ見を嫌う人がいただろう中でそれを許してくれた数少ない大人だった。
それ以外でも自身のお店でご飯をご馳走してもらったり時には動物園やサーカスなどにも連れていってくれたりと今では考えられないほどの古き良き時代。
特に印象に残っているエピソードの一つが“銭湯”に連れて行ってもらった話だ。
お風呂が好きとはなんて渋い子供なんだと思われるかもしれないが逆である。
とにかく僕はこの銭湯だけが行きたくない場所。ただでさえ中年のおじさんと一緒に行くだけでも今思うとかなりシュールなのだが、それ以上にそう思わせたのが“野菜ジュース”であった。
この銭湯は搾りたての野菜の果汁をサービスで飲めるのが売りだったが子供の頃はこれが苦手。それにも関わらず、それを飲ませようとしてくるのだからそう思うのも仕方がない。
今となっては野菜は苦手どころかむしろ好きになっているのでそれに関してはとてもありがたかったと感謝している。
そんなこんなで色々遊び疲れた挙句、結局は八田さんのお店兼自宅で寝てしまうというのがお決まり。
そして仕事帰りの両親とそこで合流しては夕飯を食べたり時には手積みの麻雀で卓を囲む流れだった。
母親は麻雀は打てなかったが、父親と八田さんに加えて“あっちゃん”と“かっちゃん”という同じくらいのおじさん達がメンツに入るのが恒例。しかし、ここでも父親は教えてはくれなかった。
年子の兄とあっちゃんの一人娘で自身と5才ほど離れた“サヨちゃん”は一緒によく遊んでいたが僕は卓を囲んだ大人達の後ろが特等席。
八田さんはとにかく形を綺麗にするタイプでその時に中ぶくれの形が良いと言う事だけは何となく教えてもらったと捉えている。
もちろん家族でディズニーランドや映画館などにも行きたかったが、こうして少し大人くさい空気もそれはそれで良かったし何より家族がこうして一つに集まれるだけで満足だった。
しかし、それが長く続く事はなかったのである…
『麻雀クラブ葵』の消滅
小学生に上がって少し経った頃だっただろうか。
突拍子もなく家のリビングに家族全員が集められた。
いつもと違う空気が流れ、父親が口火を切り出す。
“おまえたちはこれからおじいちゃんおばあちゃんの家で暮らす事になる。”
年が一つ上の兄とまだ1歳になるかならないかの妹がいる中、その第一声に僕らは何が起きたか到底理解できるはずもなく只々黙る事しかできなかった。
そして、
“お母さんは少し体が良くなく、しばらく入院する事になるかもしれない。”
その時の母親の今にも溢れ出しそうな感情を隠す姿というのは事の大きさを悟るのには十分過ぎるものだった。
僕たちは家から1時間以上離れた祖父母の下へ預けられ、母親は同じく家から反対方向に1時間以上離れた県内で一番大きな大学病院へと分かれることに。そして、父親は週の大半を1人今の家で過ごすという生活となった。
病院には月に数回お見舞いに行っていたし特に寂しいという思いはあまりなかったが、少し嫌だなぁと思ったのが運動会や授業参観のようなイベント。
一時帰宅は何度かあったものの母親の最初の退院は中学に上がる頃。それまで学校行事に保護者として両親が来る事は一度もなかった。
いつも親代わりはおじいちゃん。周りの若い保護者に憧れを抱くと同時になんとも言えない羞恥心があったのは正直な所。
“小林くんのお母さんはどこにいるの!?”
毎度毎度のこの質問。ほっといてくれよと思いながらもいつも仕事で来れないと取り繕い、おじいちゃんの存在を隠すので精一杯だった。
それでも、私立の小学校に通ってたのもあり片道1時間かけて送り迎えしてくれた祖父母には今でも感謝してもしきれない。
そんな環境の中で少しずつだが変化があった。
父親が週末に僕たちがいる祖父母の家にくるようになったのである。しかし、それは大好きな場所がなくなると言う事を意味していた。
“麻雀クラブ葵は手放す事にする。”
父親はそう一言残しただけで他に何も語る事はなかった。
もうあの秘密基地からの景色は見渡すことはできない。家族揃って卓を囲むこともないかもしれない。そうなりたくないと思ったのか分からないが、ここを境に麻雀という存在は僕の中から消えていったのである…
麻雀との再会
月日は流れ、僕が中学校へ上がる頃に母は最初の退院を迎えた。
以前のようにバリバリ働く姿は見れないかもしれないがこうして家に帰ってくるだけで良かったと思わせてくれる。
少しサポートがないと生活に支障をきたす為、これを期にバリアフリー化された住宅へ引っ越し、僕はエスカレーター式の私立中学へは進学せず公立の中学校へ入学することになった。
最初は誰一人知らない環境に戸惑ったが次第に友達もでき始め、一緒に帰る事も度々。
家から学校まで片道30分要したが、この道中には誘惑が多かった。
もんじゃ焼き屋、バッティングセンター、駄菓子屋…その中で一番のお気に入りはゲームセンター。
もちろん一旦家に帰ってから友達とそこで集まっている…という事にしておこう。
当時は“音ゲー”と呼ばれるものが流行っていて僕らはそれに夢中だった。
一方で、店内の薄暗い奥には多種多様なゲーム機が置いてありその中の一つに『麻雀』があるのも知っていたが、
僕はそのゲームはやらなかった。
この頃からだっただろう。
“麻雀”は子供がやってはいけない遊び。
だから父親は教えてくれなかったんだと。
薄れかかってたあの時の記憶は完全に閉ざされいったのである。
それからは県内の高校を卒業し、私立の大学へと進学した。
幸いな事にすぐに友達もでき、ごくごく普通の大学生活を送った大学1年生の夏。
それは突然の出会いだった…
その友人の家に遊びに行った時の事であった。運命の一冊の本は本棚の一番手前に置いてあったのである。
“二階堂姉妹”
そして
“プロという存在”
やってはいけない遊びという根拠のない言い訳で閉ざしてきたあの頃の、家族で卓を囲んだあの記憶というものが溢れ出してきて胸が熱くなった。
そして
どこか否定されていたような見えない霧がすっと薄れ始め、晴れ渡るような景色が見えたのである。
『どんなプロになりたいかは今は分かりません。でも将棋や囲碁のように麻雀を普及させたい。』
ひらりと舞い降りた言葉。
もしかしたらそれは自分のためなのかもしれない…
大切な記憶をなくさないように…。