小さき感動たちの話。

布団の外に出ている顔だけが、静かに寒い季節がやってきました。人が素通りしてしまいそうなことをみつけては、ハッと息をのんで小さく感動して、日々を過ごすことに集中しています。

何かのきっかけで、瞑想を始めてから、ずいぶん時間が経ち、生活の中で瞑想中に感じるような、一瞬の「間」みたいなものを、より多く感じる機会が増えてきました。

それに伴い、自分の好きなものや好きなことが、よりハッキリと自覚されるようになったことは、私にとってかなり大きな変化かなと思います。

小さな感動と言いましたが、それは体感としてはとても大きく、ひとつひとつを大げさなくらい祝福しながら感じられるというのは、それこそ至福です。

最近本を読んでいる時に、小さかった頃のあたたかな胸の内側のふつふつを感じて、あぁ本を好きな理由はこれだったんだなと気づいたときに、この感動を味わいたくていつも本を開いていたのだと納得がいきました。

本を読む、という行為自体が、私にとっては全身が発光するような、そんな瞬間だったのだと。下校途中に本を読みながら歩いていて、電柱にぶつかった時のことなどを思い出しました。

話は変わりますが、ある人が自分の小屋を建てたい、ということを言っているのを聞いたことがあり、その時の自分はなぜそんな望みが湧くのだろうかと、まだピンときていなかったのですが、今はその人の気持ちが少しわかります。

小屋を建てる、という行為がもつ、圧倒的な自由さに憧れるのだなと。その人は本当に小屋を建てていらして、どんどん子どものようにピカピカに輝いていって、なるほどそういうことか、とこれまた納得いった次第です。

圧倒的な自由さに圧倒されることなく、自分の望みを叶えていけるひと、は、しっかりと自分の子どもの心を、自分で気づきながら抱えながら楽しみながら生きているのだなと感じます。

その片鱗が自分にも見えたことが、最近のいちばんの喜びでした。

芽生えたこの感覚を消さないでいるには、次々に自分の旬を感じながら、その圧倒的な自由さの瞬間を全身で受け入れ、また流していくことが大切です。



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