![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/120070581/rectangle_large_type_2_b714c48f2f88999961352931f5cda8f1.png?width=1200)
やっぱり熊猫が好き
ホロスコープの読み方を学び始めて、
今までは言葉の上でだけ理解していたことが温度や質感を帯びて感じられるようになってきた。
人はみなそれぞれ。自分は自分。あなたはあなた、彼らは彼ら。
全員がそれぞれの星のもとに生まれ、分刻みで変化するその宇宙の様子に、誰もが違う地図を持ってこの世に生を受けたのだと思い知らされる。
そして、
今この瞬間に生きているわたしたちは全て死に向かって時間をすすめている。ホロスコープはその死の瞬間に完成するのだと思う。
わたしたちは皆、その瞬間に向かって、なりたい自分の完成形に向かって生きているのだ。
すでに人間ができているように見える人でも今はまだ不完全で途中なのだ。だから彼らは矛盾を含んだ言動をとる。
それは途中だから。
なりたい自分のイメージで言葉を発し、人を諭す。
でも、まだ途中だからその言葉に則さない行動をとる。
その矛盾に腹を立てていたことがあったのだけれど、
わたしも含め皆がきっと途中なのだから、未熟であることは必然なのだということに気づき、不思議とその腹立たしさは減少した。
言ってることと、やってることが違う人
わたしの中で「その人を信頼できるかどうか」の大きな指針のひとつがこれだ
そこが徹頭徹尾一貫していない場面に遭遇すると、すぐに不信感が顔を覗かせてきて
「ねえ、大丈夫?この人、言ってること違わない?」とジャッジを急かしてくる
厄介なことに、わたしはけっこう記憶力がいい
年齢なりに多少衰えてはきたけれど、わたしが関わってきた人たちの中では断トツの記憶容量を擁しており、
それ故に、言った本人は忘れているのに、自分だけは覚えているということがかなりあるのだ
言ったことを忘れている当人は、言った時の気持ちも忘れていることが多い
まあ、そうだろう
だから、その時と違うことをやったり言ったりする
すると、わたしの不信感がGoogleのクローラーよろしく、すぐに検知して顔を出す
「ねえ、大丈夫?」ああ、厄介だ
そんな時、このテキストファイルの胸中に至ったのだと思い当たる
覚えている自分だけが抱えるモヤモヤ
"誰か"にされた助言を覚えているわたしと、
その助言を棚に上げた行動をしていた"誰か"
あらわれた不信感と、それまでにあった信頼への愛着
それらが綯い交ぜとなってモヤモヤしていたのを思い出す
"理路整然"や"首尾一貫"を好ましく思っていたあの頃の自分には
それらの矛盾が受け入れがたく、
かと言って、それでその"誰か"をすべて否定することに
躊躇い、後ずさってしまうぐらいの愛情も持っていた
自分も、他のすべての人も未だ完成していない
このアイデアはわたしをいろんなものから救ってくれた
ゼロか100、白か黒
潔くあることに重きをおいて、
その重さは、自分の心でさえもパッキリと分け隔てなくてはいけないという枷に姿を変えていたのかもしれない
わたしだって未完なのだから矛盾を孕んでいたっていいのだ
これをきっかけに枷が外れて、
グレーとか、57ぐらいとか、そういう曖昧なもの
そういうハッキリしてない柔らかなものも許せるように、受け取れるようになった
大げさに言うと、それはまるで、
自分とか人とか、社会とか世界とかに寛容になれるドアに付いてる取っ手みたいだった
その取っ手を引いて開いたドアの先に広がっていた、やさしい色味の世界を今、ペールグレーの服を着て生きている
今もパンダをこよなく愛していることと、コーヒーは絶対ブラックなのは変わらないけど