絵筆代わりに足で絵を描いた奇想天外な画家「生誕100年 白髪一雄」画業と生涯
絵筆代わりに足で絵を描いた奇想天外な画家・白髪一雄は、今年生誕100年を迎えた。その記念展「生誕 100 年 白髪一雄 行為にこそ総てをかけて」が、生誕の地・尼崎の尼崎市総合文化センター美術ホールで9月23日ま
で開催されている。初期の具象画から晩年の油彩画まで作品だけでなく、白髪一雄の人物像にも焦点を当て、所持していた遺品、写真やドローイングブックなども展示。画家になる前から画家としての歩み、そしてアトリエの再現など「アクション・ペインティング」という独自の描画法を考え出した生涯を辿っている。30有余年前にお会いし、その作品の迫力に魅了された筆者にとって、作家について知らなかった多くを知りえた待望の全貌展だ。
誰も試みなかった足で描く制作手法
白髪一雄は1924年、兵庫県尼崎市西本町の呉服商の家に生まれる。兵庫県立尼崎中学校(現:兵庫県立尼崎高等学校)の在学時に絵画部に入ったことがきっかけで画家を目指すようになる。京都市絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)日本画科を卒業後、油絵に転向し、大阪市立美術研究所で学んだ。
戦後、既成の芸術概念や形式を否定し、革新的な表現をめざす芸術活動は関西を中心に展開される。白髪は1952年、同じ美術研究所で学んだ現代美術家の金山明、村上三郎、田中敦子らと共に「0会」を結成する。作品を持ち寄って批評し合い、0会展も催した。1954年には吉原治良をリーダーとして、阪神地域に住む若い美術家たち17人で結成された「具体美術協会」に、その翌年、「0会」のメンバーが合流した。
「人の真似をするな。今までにないものをつくれ」という吉原の指導のもと、メンバーは、より過激で新しい制作手法を模索した。油絵に転向したばかりの白髪は風景画や人物画を描いていたが、やがて既存の絵画の枠から出て独自の創作を行いたいと思い始めた。
そして誰も試みなかった足で描くという作画方法を思いついた。天井から吊るしたロープにつかまって、床に広げたキャンバスに足で描く「フット・ペインティング」という制作手法を生み出した。白髪は戦後日本の前衛芸術を牽引したアーティスト集団、具体美術協会の中心メンバーとして活躍し、国際的にも高い評価を得ている。
今回の展覧会の見どころは、白髪の初期から晩年までの画業を通覧できるよう構成し、白髪一雄の生涯を辿っている。作品が生み出された背景にも光を当て、尼崎の記憶をめぐる資料や、生家「木市呉服店」にあったアトリエの再現、白髪が愛好した品々、さらには、創作のために心身を鍛えようと修行を行った天台密教に関連する資料なども加え、生涯にわたり飽くなき挑戦を続けたアクション・ペインターの人と画業を追求している。
展覧会には、尼崎市所蔵の他、東京都現代美術館、兵庫県立美術館など6つの美術館から代表作をはじめ、初期風景画など水彩約10点、初期の裸婦像、肖像画などドローイング 約10点、初期具象画から晩年の油彩画まで約35点、「具体」時代のオブジェ2点(再制作作品)が出品されている。
なお開幕前日に、オープニングセレモニーが開かれた。壇上から平井章一・実行委員長(関西大学文学部教授)が「白髪の芸術は尼崎で培われました。尼崎文化の奥深さを多くの人に知ってほしい」、松本眞・尼崎市長は「白髪作品を発信するため、市ではさまざまなイベントを展開しています」、最後に白髪の長男・久雄さんは「記念展を盛大に行っていただき、父も喜んでいると思います」と、それぞれ挨拶した。
この後、野外に舞台を移し、白髪とともに具体美術協会で活躍した今井祝雄さんのパフォーマンスが行われた。かつて1970年の大坂万博に出品された作品《3t(トン)石》を蘇らせる意図で、大きな石に白い塗料をかけ、刷毛で整えるパフォーマンスで、白髪の生誕100年を祝った。
時系列に多様な作品、アトリエも再現
展示はほぼ時系列に4章で構成されている。プレスリリースを参考に、各章の内容と主な作品などを取り上げる。
第1章は「育まれたエネルギー 1924-1954」。 白髪の人格形成に大きく影響を与えた生家の呉服店に関連する作品や資料、生まれ育った当時の商店街の様子を伝える資料などをエピソードとともに紹介している。画家として歩み始めた当初に所属していた「新制作派協会」時代の油彩画から「具体」に参加するまでの数年間に絵筆、ペインティングナイフ、手指、素足へと描き方が変遷した創作の流れを追う。
ここでは、《役者絵》(1947年頃、個人蔵)をはじめ、《尼崎出屋敷与茂川》(1948年、尼崎市蔵)、《裸婦》(1950年前後、個人蔵)、さらに《照魔鏡》(1951年、個人蔵)、《脈モノクロームA》(1953年、個人蔵)、《文》(1954年、芦屋市立美術博物館蔵)、《作品Ⅲ》(1954年、横須賀美術館蔵)など初期の風景水彩画、抽象的なドローイングや油彩画、作品の下絵が展示されている。生家「木市呉服店」の資料や写真アルバム、白髪家に伝わる能面、白髪が蒐集していた刀やスクラップブックなども並ぶ。
第2章は「独自の表現を求めて 『具体』と歩む 1954-1972」で、白髪が所属していた「具体」では、「これまでになかったものを創り出す」ことを目指し、若い会員たちが自由な発想で新しい表現を次々に生み出していた。白髪も野外の展覧会や舞台を使った展覧会などに実験的な作品を出品するとともに、ロープにつかまり素足で描く独自の力強いアクション・ペインティングの絵画を確立した。エネルギーに満ち溢れた時代の代表的な作品が目白押し。
《天敗星活閻羅》(1960年、横須賀美術館蔵)はじめ、《地煞星鎮三山》(1961年、芦屋市立美術博物館蔵)、《天空星急先鋒》(1962年 兵庫県立美術館蔵)、《大金剛神》(1963年、滋賀県立美術館蔵)、《猪狩 壱》(1963年、東京都現代美術館蔵)、《平治元年十二月二十六日》(1966年、和歌山県立近代美術館蔵)など迫力満点だ。
この章では、「具体」初期時代の立体作品《赤い材木》や「水滸伝豪傑シリーズ」の大作などに加え、かつて尼崎の中央商店街にあった「木市呉服店」2階のアトリエを再現している。
第3章は「密教との関わり 1971-1979 」。「具体」の活動全盛期に自身の創作の在り方を模索していた白髪は密教と出会う。密教をテーマとする新たな作風へと変化していく時代の作品と、生涯にわたって影響を受けた密教との関わりについて迫る。
独自のヘラを使って円相を描いた「密教シリーズ」作品、密教関連の資料などが展示されている。
《五大尊種字》(1975年、個人蔵)ほか、《東方浄瑠璃世界》(1972年、兵庫県立美術館)、《不動尊》(1973年 延暦寺蔵[滋賀県立美術館寄託])、《密呪》(1975年、尼崎市蔵)なども注目だ。
最後の第4章は「アクション・ペインティングのさらなる展開 1980-2008 」では、密教に傾倒した時代を経て、再び素足で描くアクション・ペインティングを深め、晩年まで続く創作の集大成を紹介している。
ここでは、モノクロームや色鮮やかな作品など、フット・ペインティングのヴァリエーションが豊かに展開されたことがわかる晩年の作品が並ぶ。《群青》(1985年、尼崎市教育委員会[尼崎市立尼崎高等学校]蔵)や、《蛭子》(1992年、個人蔵)、《風魔》(1996年、個人蔵)、《うすさま》(1999年、個人蔵)など晩年の作品に注目だ。
今回の展覧会について、尼崎市文化振興財団学芸員の妹尾綾・美術課係長は、「『具体』時代に確立したアクション・ペインティングという描画法(行為)を、生涯をかけて(総てをかけて)追及しつづけた画家の姿勢を伝えることが、生誕100年という節目の展覧会に相応しいと考え、画業全体を通覧していただけるようにしました。また、書作品なども出品し、白髪の表現の多様さを知っていただけると思います。単なる回顧展ではなく、新しい可能性を追求する生誕100年でありたいと考えています」とコメントしている。
比叡山延暦寺で得度、求道的な作品
白髪は1971年に密教への関心が高まり比叡山延暦寺で得度(出家)し、天台宗の僧侶となった。さらに翌年、吉原治良の死去をきっかけに具体美術協会が解散し、この頃から白髪には密教的な濃密な精神性があらわれ始める。制作スタイルも、これまでの素足で描くものからスキージという長いヘラを用いて描くスタイルに変化した。
1974年に35日間の仏道修行「四度加行」を満行してからは、スキージで円相を描いた作品を多く制作したが、円相の繰り返しによって制作するスタイルに行き詰まり、再びフット・ペインティングに回帰する。
白髪は、2008年、尼崎市にて敗血症のために83歳で逝去した。生前、1987年に兵庫県の文化賞、1999年に文部大臣からの地域文化功労者表彰、2002年に大阪府の芸術賞を受賞している。
筆者は大阪・中之島の国立国際美術館が千里の万博記念公園に立地していた時代、当時の木村重信館長(2017年死去)の紹介でお会いし、その後、作品は同館や、兵庫県立美術館の常設展示などでしばしば鑑賞している。
手元には、今回と同じ尼崎市総合文化センターの「白髪一雄展」(1989年)はじめ、兵庫県立美術館での「白髪一雄展」(2001年)、没後の2009~2010年に安曇野、尼崎、横須賀、碧南各市を巡回した「白髪一雄展 格闘から生まれた絵画」の図録がある。そして今年4月には、兵庫県立美術館での「アクション・ペインター 白髪一雄生誕百年特別展示 ―コレクションからザ・ベリー・ベスト・オブ・白髪一雄―」も鑑賞している。
この時は、《天異星赤髪鬼》(1959年)や、《黄帝》(1963年)、《あびらうんけん》(1975年、いずれも兵庫県立美術館蔵)などが出品されていたので、この画像も掲載する。
兵庫県美では、「白髪の作品は、足で描かれることからアクション・ペインティングと呼ばれますが、単に足の動きを反映させた絵ではなく、眼には見えない内的なものに結び付いた肉体に関心をいだいていた白髪その人には、精神的で求道的な相貌がちらついています。そしてここに白髪の絵画が限りない凝集力と訴求力があるのでしょう」と解説していた。
70歳過ぎても終生、足で制作を続けた白髪一雄は、生前に開かれた「アクション・ペインター 白髪一雄展」の図録に、「処女雪の上を滑走する」と題して、次のよう一文を記している。
画家である私が絵具という物質を使って、足で描くという行為(アクション)こそが大切であり、描く方法が非常に重要なことであると気付い た。それは絵具でなくてもよい。使えるどんな物質でも利用して描く、また作るという行為が自分にはとても大切で、これが今までになかった次元世界であると確信した。その時の私の心情は、目前に誰の滑り跡も無い一面の銀世界が広がり、白い輝く処女雪のスロープがあった。ここを自由自在に滑走してやろうという、壮快な気持ちが沸き上がって来たのである。
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