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大阪中之島美術館で「モネ 連作の情景」 「睡蓮」とジヴェルニーの庭もリポート

 何度見ても新鮮で飽きることのないモネの作品にまた出会えた。しかも国内外40館以上から集結した約70点すべてがモネの作品だ。東京・上野の森美術館で46万人を超す集客の巡回展。フランスには2度旅をし、2010年5月に再訪した目的の一つは、モネが晩年を過ごし、睡蓮を浮かべた庭のあるジヴェルニーのアトリエのある邸宅と、オランジュリー美術館の「睡蓮」シリーズの大作の展示室を見ることだった。その時の現地リポートも合わせ取り上げる。

クロード・モネ(1899年)の肖像‘(ジヴェルニーで入手した冊子より) 

〈睡蓮〉など「連作」に焦点“100%モネ“の作品

 日本でも根強い人気の印象派を代表するフランスの画家、クロード・モネ(1840~1926)。港の早朝を描いた《印象・日の出》(1872年)は印象派の名前の由来になった。その第1回印象派展(1874年)から150年の節目を迎えることを記念した展覧会だ。本展では、モネの代名詞として親しまれている「連作」に焦点を当てながら、時間と光とのたゆまぬ対話を続けた画家の生涯を辿っている。
 クロード・モネは1840年11月14日、パリに生まれる。家族の転居に伴い5歳頃からル・アーヴルで暮らす。18歳の頃、風景画家ブーダンの助言により戸外で風景画を描き始め、パリに出て絵を学ぶようになる。1862年には、画塾でルノワールら仲間と出会う。1865年、サロンに初入選し、尊敬するマネに「水のラファエロ」と呼ばれる。その後はサロンでの落選が続き、経済的に困窮する。
 普仏戦争を機に妻子を連れてイギリスとオランダに滞在。1874年、第1回印象派展を仲間とともに開催。国内外を旅して各地で風景画を精力的に描く。1883年よりセーヌ川流域のジヴェルニーに定住。
 1880年代後半から自宅付近の〈積みわら〉を「連作」として描き始め、この頃から旅先での制作も「連作」の兆しを見せる。1891年、デュラン=リュエル画廊で〈積みわら〉の連作15点を公開。この個展が評判を呼び、フランスを代表する画家として国内外で名声を築く。連作はその後〈ポプラ並木〉〈ルーアン大聖堂〉〈セーヌ川の朝〉、ロンドンやヴェネツィアの風景、〈睡蓮〉などのテーマに及ぶ。晩年の制作は〈睡蓮〉が大半となり、眼を患いながら最晩年まで描き続けた。
 1926年12月5日、ジヴェルニーの自宅で86歳にて死去。ライフワークだった〈睡蓮〉の大装飾画はフランス国家に遺贈される。後半生の作品はカンディンスキーや抽象表現主義の画家たちに影響を与え、モネの再評価につながった。「モネはひとつの眼にすぎない。しかし何という眼なのだろう!」というセザンヌの言葉が有名だ。
 今回の展覧会の見どころは、まず第一に、同じ場所やテーマに注目し、異なる天候、異なる時間、異なる季節を通して一瞬の表情や風の動き、時の移り変わりをカンヴァスに写しとった「連作」は、巨匠モネの画家としての芸術的精神を色濃く映し出している。

《昼食》(1868-69年、シュテーデル美術館) © Städel Museum, Frankfurt am Main

 第二は、日本初公開となる人物画の大作《昼食》を中心にした、「印象派以前」の作品から、〈積みわら〉や〈睡蓮〉などの多様なモチーフの「連作」まで、大阪会場だけで展示される12点を含む約70点すべて、いわば“100%モネ“の作品だ。
 第三に、当時フランスの画家にとってほぼ唯一で最大の作品発表の場だった、国が主催する公募展であるサロンを離れ、印象派の旗手として活動を始めるきっかけとなった第1回印象派展から150年の節目の企画展でもある。《昼食》を中心に、「印象派以前」の作品もご紹介し、モネの革新的な表現手法の一つである「連作」に至る過程を追っている。

「印象派以前」の大作《昼食》は日本初公開

 展覧会は5章で構成されており、プレスリリースなどを参考にその概要と主な作品を掲載する。第1章は「印象派以前のモネ」で、パリで生まれたモネはル・アーヴルで成長し、風景画家ブーダンとの出会いを契機に戸外で風景を描き始める。画家を志して18歳でパリに出て、アルジェリアでの兵役を経て絵の勉強を続けます。画塾で出会ったピサロ、ルノワール、バジールらと親交を深める。
 画家の登竜門であるサロンに1865年に初入選するが、審査の厳しくなった保守的なサロンでは評価されず、その後は落選が続く。1870年に普仏戦争が始まるのを機に、妻子とともにイギリスとオランダに滞在する。
ここでは、いずれも初来日の大作《昼食》(1868-69年、シュテーデル美術館)や《ルーヴル河岸》(1867年頃、デン・ハーグ美術館)、オランダで描いた風景画など、初期作品が注目される。

《ルーヴル河岸》(1867年頃、デン・ハーグ美術館)
© Kunstmuseum Den Haag - bequest Mr. and Mrs. G.L.F. Philips-van der Willigen, 1942

 第2章は「印象派の画家、モネ」。1871年末から、モネはパリ郊外のアルジャントゥイユで暮らし始めます。モネと仲間たちは1874年春、パリで第1回印象派展を開催する。精力的な制作の一方で、景気後退により経済的に困窮し、1879年には妻カミーユが亡くなるなど苦しい時期もあった。本章では、1870年代から80年代にかけ、セーヌ川流域を拠点に各地を訪れて描いたモネの作品を展示します。アトリエ舟で自在に移動し、戸外で制作した印象派らしい多様な風景画を鑑賞できる。
 《ヴェトゥイユの教会》(1880年、サウサンプトン市立美術館)や、《モネのアトリエ舟》(1874年、クレラー=ミュラー美術館)などが展示されている。

《ヴェトゥイユの教会》(1880年、サウサンプトン市立美術館) © Southampton City Art Gallery

 第3章は「テーマへの集中」で、新たな画題を求めて、パリ近郊はもちろん、ノルマンディー地方やブルターニュ地方、地中海の港町などヨーロッパの各地を訪れて制作した足跡を追う。時には数ヶ月も滞在して、人影のない海岸などを好んで描いた。ノルマンディー地方のプールヴィルの海岸やエトルタの奇岩など、モネが何度も訪れた場所の作品が並ぶ。滞在中、同じ対象であっても季節や天候、時刻によって、海や空、山や岩肌の表情が絶え間なく変化する様子をモネはカンヴァスに描き留めた。

《ヴェンティミーリアの眺め》(1884年、グラスゴー・ライフ・ミュージアム(グラスゴー市議会委託)© CSG CIC Glasgow Museums Collection. Presented by the Trustees of the Hamilton Bequest, 1943

 《ヴェンティミーリアの眺め》(1884年、グラスゴー・ライフ・ミュージアム[グラスゴー市議会委託])や、《ラ・マンヌポルト(エトルタ)》(1883年、メトロポリタン美術館)のほか、《エトルタのラ・マンヌポルト》(1886年、メトロポリタン美術館)は日本初公開だ。

《ラ・マンヌポルト(エトルタ)》(1883年、メトロポリタン美術館) Image copyright © The Metropolitan Museum of Art. Image source: Art Resource, NY. Bequest of William Church Osborn, 1951 (51.30.5)

 第4章は「連作の画家、モネ 」。1883年、モネはセーヌ川流域のジヴェルニーに定住する。やがて、自宅付近の積みわらが光を受けて刻々と変化する様子を同時進行で何枚も描くようになる。1891年にデュラン=リュエル画廊でそれらを「連作」として展示すると大好評を博し、国際的な名声を築く。以後は別のテーマでも次々と連作に着手。1899年からはロンドンを訪れ、〈チャリング・クロス橋〉や〈ウォータールー橋〉などに取り組む。「連作」という手法の着想源の一つにはモネが愛好した日本の浮世絵版画の影響も指摘されている。

《積みわら、雪の効果》(1891年、スコットランド・ナショナル・ギャラリー)
© National Galleries of Scotland. Bequest of Sir Alexander Maitland 1965

 《ジヴェルニーの積みわら》(1884年、ポーラ美術館)と《積みわら、雪の効果》(1891年、スコットランド・ナショナル・ギャラリー)、《ウォータールー橋、曇り》(1900年、ヒュー・レイン・ギャラリー)と《ウォータールー橋、ロンドン、夕暮れ》(1904年、ワシントン・ナショナル・ギャラリー)、《ウォータールー橋、ロンドン、日没》(1904年、ワシントン・ナショナル・ギャラリー)や、《チャリング・クロス橋、テムズ川》(1903年、リヨン美術館)なども「連作」作品だ。

《ウォータールー橋、曇り》(1900年、ヒュー・レイン・ギャラリー)
Collection & image © Hugh Lane Gallery, Dublin
《ウォータールー橋、ロンドン、夕暮れ》(1904年、ワシントン・ナショナル・ギャラリー)
© National Gallery of Art, Washington. Collection of Mr. and Mrs. Paul Mellon, 1983.1.27
《ウォータールー橋、ロンドン、日没》(1904年、ワシントン・ナショナル・ギャラリー)
© National Gallery of Art, Washington. Collection of Mr. and Mrs. Paul Mellon, 1983.1.28
チャリング・クロス橋、テムズ川》(1903年、リヨン美術館)
Image © Lyon MBA, Photo Alain Basset, B 1725

 最後の第5章は、圧巻の「〈睡蓮〉とジヴェルニーの庭」。ジヴェルニーの自宅はモネの創作にとって最大の着想源となった。「花の庭」と「水の庭」を本格的に整備し、花壇の草花や、睡蓮のある池を描いていく。次第に制作の大半は〈睡蓮〉となり、池の水面に映る色と光の抽象的なハーモニーが次々に誕生。晩年のモネは、後妻のアリスや家族に支えられ、視覚障害に悩みながらも86歳で亡くなるまで制作を続けた。

圧巻の「〈睡蓮〉とジヴェルニーの庭」の展示室

 この章では、《睡蓮》(1897-98年頃、ロサンゼルス・カウンティ美術館)や、《睡蓮の池》(1918年頃、ハッソ・プラットナー・コレクション)のほか、《睡蓮の池》(1907年、石橋財団アーティゾン美術館)と《藤の習作》(1919-20年、ドゥルー美術歴史博物館)は大阪展のみの展示だ。

《睡蓮》(1897-98年頃、ロサンゼルス・カウンティ美術館) Los Angeles County Museum of Art, Mrs. Fred Hathaway Bixby Bequest, M.62.8.13, photo © Museum Associates/LACMA
《睡蓮の池》(1918年頃、ハッソ・プラットナー・コレクション) © Hasso Plattner Collection
《睡蓮の池》(1907年、石橋財団アーティゾン美術館)
《藤の習作》(1919-20年 ドゥルー美術歴史博物館)
Musée d‘artet d‘histoirede Dreux, © F. Lauginie

10年の修復作業を経て「モネの庭」を再現

 有名な「ジヴェルニーのモネの庭」は、パリから約80キロ、ノルマンディー地方のセーヌ河のほとりにあった。駐車場には観光バスが何台も連なり、世界各地から訪れた観光客が行き交っていた。入り口から地下通路をくぐ

「ジヴェルニーのモネの庭」の入口近くにある地下通路

り、まず「水の庭」へ。木々の緑の中、池の周りを巡っていると、太鼓橋がかかっている。池には睡蓮が浮かび、枝垂れ柳が影を落としていた。「睡蓮」の多くの絵はここで生まれたのと想像すると感激をおぼえた。
 再び地下通路を抜けて邸宅の前に広がる「花の庭」へ。訪れた時期、白いフジが咲き、ジャーマンアイリスの色彩が華やかだった。散策路をはさんで黄色、赤、ピンクなど色とりどりの花が咲き誇り、アーチや柵に這わせたバラの木が植えられていた。

蓮が浮かぶ「水の庭」
緑の木々が水面に映える「水の庭」

 庭でくつろいだ後は邸宅の中へ。モネが愛用したと思われる数々の調度品が各部屋にあり、レモンイエローの壁のリビング、ブルーに統一されたキッチンなど、内部もモネが暮らしていた当時を再現しているそうだ。その壁面には、所狭しと浮世絵コレクションが展示されていた。モネがいかに日本的な情緒を愛していたかが理解できた。

21 色とりどりの花が咲く「花の庭」
「花の庭」の後方はモネの住んだ自宅
自宅に飾られていた浮世絵

 モネが実際にここで暮らしたのは 1883年から1926年、43歳から亡くなるまでちょうど生涯の半分になる。庭は第二次大戦でほとんど破壊され1966年に芸術アカデミーに寄付された。そして10年の修復作業を経て家も庭園もモネの住んでいた頃と同じ状態に再現されたのだ。
 邸宅の玄関の一角にはベンチが据えられており、花の庭を眺めていると、自分の視線が、同じように庭を眺めたであろうモネの視線に重なるのを感じた。生前は評価もされず貧困にあえいだゴッホと比較して、画家としてなんと幸せな生涯を全うしたことだろうと思った。

二つの楕円形の展示屋に8構図22点

 モネは睡蓮の池をモチーフに、1899年から1926年に亡くなるまでの間に〈睡蓮〉を全部で200以上を制作した。その探求の成果でもある記念碑的作品として、オランジュリー美術館には、「睡蓮」の大装飾画が展示されているのだ。

コンコルド広場東側の公園の一角にあるオランジュリー美術館
海外からの観光客が詰めかけていた館内

 モネの庭を散策した翌日、コンコルド広場東側の公園の一角にあるオランジュリー美術館を訪ねた。1996年に全面改装を終えており、整備された入り口で安全検査を受け入場し荷物を預け日本語の音声ガイドを借り受けたが、どの職員も笑顔での対応には驚いた。

〈睡蓮〉シリーズが並び壮観の展示室

 入館してすぐに、お目当てのモネの展示室があった。二つの楕円形の部屋に〈睡蓮〉シリーズが、ぐるり展観できる。『朝』『雲』『柳』など8構図22点の画布は高さ2メートル、直線にして91メートルに及ぶとのことだ。温度・湿度・照明などあらゆる面から絵画のための理想の美術館といえる。モネは76歳の時から手がけ、死後に国に納められたのだ。生前、モネは次のような言葉を遺している。
  円形の部屋を想像してみたまえ、壁の裾から水面が広がり、睡蓮が散り
  ばめられ水平線へ辿り着く。緑やモーヴ色がかわるがわる浮かんではあ
  らわれ、静寂に満ちた水面に満開の花が映っている。色調が理とやさし
  いニュアンスに満ちて、夢のようにデリケートなはずだ……
 モネが思い描いた展示の部屋に身を置くことの感懐に浸った。展示室は撮影も許可されていたが、しばらくはこの「睡蓮の世界」にたたずんでいた。
生前に評価を得て、思う存分、〈睡蓮〉など「連作」に没頭したモネは幸せな画家だったと思われる。しかしモネは晩年、「絵を描くことは実に難しく苦しい。絵を描いていると希望を失ってしまう。それでも私は、言いたいと思っていることをすべて言ってしまうまでは、少なくとも、それを言おうと試みたうえでなければ死にたくない……」との独白を遺している。モネは決して楽しんで「連作」をしていたのではなかったのだ。

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