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日中国交正常化40周年の年、日本とゆかりの大連へ 租借地となっていた満州時代の名残の建築数々

 隣国の中国への旅は両手足の指を足した数ほどになる。1996年に唐時代の都だった西安を皮切りに、首都・北京をはじめ、シルクロードのルートにあるウルムチ-トルファン-クチャ-カシュガル、敦煌など西域にも何度か、世界遺産の景勝地として知られる九寨溝・黄龍、さらには北朝鮮と国境を接する集安にも足を延ばしている。敦煌に次いで、今回は日中国交正常化40周年の2012年4月に訪れた東北エリアで日本とゆかりの深い大連・旅順・金州の旅についてリポートする。

『アカシヤの大連』の舞台を彩る美しい街路樹

 日清戦争や日露戦争の舞台となり、日本の支配下にあった大連・旅順には一度は訪ねたいと思っていた。第62回芥川賞(1970年)を受賞した詩人で作家の清岡卓行の最初の小説『アカシヤの大連』(初版1970年、講談社)を読んでいたことも、頭の片隅に残っていて、現地への好奇心があった。

清岡卓行の小説『アカシヤの大連』(初版1970年、講談社)と大連のアカシヤ

 小説は、大連に生まれ育ち、東京のある大学の一年生だった主人公は、第二次世界大戦が終わる5か月前(1945年3月)に大連へ里帰りする。軍人になった兄二人、嫁いでたくましく生きる姉二人に比して文学青年であった彼は、戦争下の生活に矛盾を感じ、生きる望みもあまりなく、自殺まで考える、といった筋書きだ。日本統治下の大連の描写が多く、抒情豊かな文体が印象深い。
 ちなみに清岡卓行は『アカシヤの大連』で次のように書いている。
 「五月の半ばを過ぎた頃、南山麓の歩道のあちこちに沢山植えられている並木のアカシヤは、一斉に花を開いた。すると、町全体に、あの悩ましく甘美な匂い、あの、純潔のうちに疼く欲望のような、あるいは、逸楽のうちに回想される清らかな夢のような、どこかしら寂しげな匂いが、いっぱいに溢れたのであった。」
 満州出身者の有名人に作曲家の小澤征爾や版画家の池田満寿夫さんら、身近な人にも数多くいる。幼いころ、「一旗あげるなら満州だ」と日本から大陸へ渡った話を聞いていた。出来ればアカシヤの花咲く5月中頃に行くのがベストだったが、少し早かったものの春の光に輝く緑の葉が街路樹だけでなく、路地にもあり、心を和ませてくれた。
 大連はアジア大陸の東海岸に位置し、中国東北・遼東半島の最南端にあり、東は黄海、西は渤海、南は山東半島と海を隔てて向かい合い、北は広大な東北平野に隣り合っている。東北、華北、華東地域が世界各地とつながる要衝の地であるが故、1898年にロシアの、1905年には日本の租借地となっている。
 まずは大連の歴史を紐解く。1880年代に清国が大連湾北岸に砲台を築き、都市が形成され始めた。日清戦争後の1898年、ロシアが三国干渉で清国を救済した見返りとして、旅順・大連租借条約で大連のある遼東半島先端部を租借する権利を得て、「ダルニー」(「遠い」の意)と名づけた。真冬でも凍結しない港はロシアでは貴重であったため、巨額の資金を投入して東清鉄道を建設してシベリア鉄道と結び、港の整備に着手し、パリをモデルにした都市計画を作成し、郊外の旅順には要塞を建設した。
 しかし、1904年に勃発した日露戦争は日本優位のまま終戦となった。翌年、ポーツマス条約により遼東半島先端部の租借権はロシアから日本に移った。日本では清朝の地名「大連湾」から「大連」が都市名として採用された。ロシア名のダルニーと発音が似ていることにも依拠した、とされる。
 ロシア時代は、鉄道の建設が終わったばかりで港は整備中であり、線路の港寄りの街路と一部の建築物ができた状態で、人口は4万人程だった。
 日本政府は、大連を貿易都市として発展させるため「大連市区計画」を策定。関東都督府と南満洲鉄道にインフラの整備を続行させ、港湾施設を拡張した。またロシアの作成した都市計画を踏襲して西洋風の建築物が立ち並ぶ街路と市電を建設した。1920年代には大連駅とその駅前一帯が整備され、中心市街がほぼ現在の形になった。

日露戦争激戦地の金州や「二〇三高地」の旅順

 関西空港を飛び立ってわずか2時間半で大連に着いた。大連に3連泊し、観光は大連近郊の金州からスタート。金州は古くから遼東半島の中心地として栄えた古都だったが、日清戦争や日露戦争の戦場となった。
 

金州の提督府にある正岡子規の記念句碑
唐の時代に建てられた響水寺
老子の教えを崇拝する道教寺院

 正岡子規が朝日新聞時代に従軍記者として訪れた提督府に記念句碑があった。道教寺院の響水寺、日露戦争激戦地の南山にも出向いた。沿道には大型クレーンが難題も停まりし高層のマンションの建築が随所で見られ、トラックが行き交っていた。南山の高台からも大規模ニュータウンの建設が望めた。
 

沿道に何台もの大型クレーン車

 2日目には遼東半島の先端にある旅順を日帰り観光に出向いた。旅順は軍港のため、観光地として外国人に開放されたのは2009年からだ。日露戦争最大の激戦地として知られる「二〇三高地」は見逃せない。あいにくの雨天となったが、車を降りて約20分登坂したところに山頂がある。標高が203メートルあることから、命名された。ロシア軍基地のあった旅順に攻め込んだ乃木希典将軍が三度目の攻撃で奪取した。
 

「二〇三高地」の標識案内板
激戦後に建てた砲弾形状の慰霊塔

「二〇三高地」をめぐる攻防は、司馬遼太郎の『坂の上の雲』でも克明に描かれている。1万5000人もの死傷者を出し、激戦後に建てた砲弾形状の慰霊塔には、「爾霊山」と刻印されていた。当時日本軍が使用していた三十年式実包をかたどっている。文化大革命で先尖部分が破壊されたが、後に復元された。
 

実物のりゅう弾砲も設置
激戦の戦跡も随所に

山を降りて、「水師営会見所」に赴いた。乃木将軍とステッセル旅順要塞守備隊司令官とが会見し、旅順開城規約を調印した所だ。わらぶき屋根の古びた家屋がそのまま保存され、屋内には当時使用されていたテーブルといすが置かれていて、乃木将軍やステッセル司令官の会見時の写真や、攻防戦の様子などの資料が展示されていた。
 

わらぶき屋根の「水師営会見所」
会見所内に会見時の写真や、攻防戦の様子などの資料を展示

途中、初代内閣総理大臣の伊藤博文を暗殺した安重根が収監されていた旅順監獄などを見て、旅順博物館を見学した。ここには大谷探検隊の大谷光瑞が収集した文物が展示されている。三度にわたって中央アジアを踏破し、シルクロード・西域の数万点におよぶ史料を集め、その一部が寄贈された。さらに1300年前のミイラも展示されていた。
 

旅順博物館には大谷探検隊が収集した文物も展示も

 旅順の白玉山(はくぎょくさん)は観光名所となっている。山頂には日露戦争後、東郷平八郎と乃木希典が発案し、1909年に戦没者追悼のために忠魂塔として建立した。当時は「表忠塔」と命名されていたが、現在は「白玉山塔」と改名された。高さ66.8メートル。看板のある高台からは旅順港が一望できる。

「白玉山塔」は旅順の観光名所高台からは旅順港が一望できる
「白玉山塔」の高台からは旅順港が一望できる

旅順から大連の帰りは鉄道を利用し、昔ながらの硬座の二等車両に乗った。車中で撮りためたデジタル写真を再生しながら、あらためて近代日本の足跡を思い返した。
 

ロシア風の木造建築の旅順駅
旅順から大連の帰りに乗車した二等列車と車内

わずかこの100年の歴史の中、中国の国土で覇権を争い、ロシアに勝利したものの、第二次世界大戦で敗北し、北方四島まで失った日本。この間、広い大陸で一旗あげようと馳せ参じ、戦後引き揚げてきた日本国民と、それ以上に半世紀にわたって侵略され、た大連や旅順の人々の翻弄された歴史を忘れてはならないと痛感したのだった。
ロシアと日本両国が築いた街並みの名残数々 最後の2日間は、大連市内観光にあてた。日本の租借時代に大連市の中心地であり、かつて「大広場」と呼ばれていたところは、戦後「中山(ちゅうざん)広場」と改名され、依然大連市の中心地である。その中心地と周辺には、ロシアと日本両国が築いた街並みは、随所に往時の名残を伝えていた。
 

「中山広場」と改名された大連市の中心地(現地のパンフレットより)

まず訪ねた満州国開拓に大きな役割を担った旧満鉄本社。建物はそのまま「大連鉄道有限責任公司」として使われていた。2007年9月、満鉄100周年を記念して、本社の一部やホール、満鉄総裁室などが復元され開放されている。
 

「大連鉄道有限責任公司」の看板がかかる旧満州鉄道本社

 また満州一のホテルとして有名だった「大連ヤマトホテル」は、「大連賓館」として健在だった。ルネッサンス式外観の建物内に入るとガイドがいて、豪華な迎賓庁の室内やシャンデリア、螺旋階段、調度品などを案内していただいた。二階のカフェでケーキセットを注文し、窓から中山広場の眺望を楽しんだ。

「大和旅館旧址」と「大連賓館」の標識
「大連賓館」として活用されている旧ヤマトホテル
「大連賓館」の二階のカフェ
「大連賓館」の窓からの眺め

 「大連賓館」で買った1938-40年時の「たうんまっぷ大連」を見ると、中山広場から放射状に広がる街並みがよく分かる。大連駅の近くにロシア風情の街がある。ロシアの統治時代にパリをモデルに植民地都市として建設された。帝政ロシア時代の面影を伝える「旧ロシア人街」だ。
 

1938-40年時の「たうんまっぷ大連」と大連名物マトリョーシカ人形

 街に入ると一本の道路が奥まで続き、道の両側にロシア風の邸宅が建ち並び、土産物屋やホテルになっている。道の奥には宮殿風の立派な建物があったが、外壁は修復がなされておらず廃屋のようになっていた。土産物を覗くと、大連名物マトリョーシカ人形が並び、ロシア同様の雰囲気だ。
 

ロシア風の邸宅が建ち並ぶ「旧ロシア人街
宮殿風の立派な建物

高級住宅街であった「旧日本人街」も散策した。この辺りは第二次世界大戦以前には、満鉄社員など多くの日本人が住んでいたという。現在は通りの一部が ”南山旅行風景街” と呼ばれている。往時の住宅は老朽化していた。一部地域は取り壊されて新しい建物に変わっていて、往時の面影が様変わりしている。

老朽化し、建て替わる「旧日本人街」

日本が大連を租借中は聖徳公園と呼ばれていた中山公園は、10万平方を超す広大な敷地で、園内には70種類、2万余株の樹木が植えられている。公園の西方に、この公園の名前になっている孫文(孫中山)の銅像が立っている。孫文は1911年に辛亥革命で異民族の清王朝を倒し、漢民族の国家を建設し中国の近代化に貢献した。公園は市民らの憩いの場所で、太極拳、将棋、カードゲームを楽しみ、民族族楽器の伴奏に合わせて踊っている任意も出会った。

「日本の匂いが かすかに残る 夢のふるさと」


 約半世紀にわたってロシアと日本に統治された大連だが、戦後60数年を経て、人口約580万人を擁し、日本をはじめ外国の企業が進出する経済先進地であり、近代港湾都市に変貌している。

 広大な中国は何度行っても地理関係はつかめず、地図を広げて確認するのがやっと。しかし行く度に都市化が進んでいるのに目を見張った。日本を抜き、いまやGDP(国民総生産)が世界第2位となった大国に発展した。その反面、北京の場末や新疆などでは貧しい地域が散見され、貧富の差の拡大や、環境破壊、民主化の遅れや公務員の腐敗などの矛盾にも直面している。

電飾のレストラン
路線数が減ったが路面電車も健在

 中国とは政治体制が異なっているが、日本の文化の源流であり歴史的にも密接な関係があり、ますます経済の相互依存が強まっている。今回の旅でも旧満州の大連・旅順には日本の企業が数多く進出していた。人やモノ、金が双方向で動き出した日中間だけに、様々な課題を抱えながらも、成熟した関係を政治レベルだけでなく、民間でも築いていかなければとの思いを強くした。日中国交正常化100年に向けて、不幸な歴史の後戻りは出来ない。
 

大連駅は日本統治時代の建物で、東京の上野駅がモデル
国際貿易および国内の物資の交流に重要な役割を果たしている大連港

 帰国直後の7月、小柳ルミ子が歌う「アカシヤの大連」が発売された。作詞は満州から引き揚げてきた、なかにし礼で、作曲は平尾昌晃だ。その歌詞に「街のあちらこちらに 日本の匂いが かすかに残る 夢のふるさと」とあり、「アカシヤの大連を 歩いて涙ぐむ 父母が愛した街だから 暮らした街だから」とある。日本人が大連に寄せる思いを美しい詩と曲で綴った名曲だ。聞けば聞くほど味わい深く、大連の旅を追想する。


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