見出し画像

経済界で活躍した二人が70歳過ぎて著書パワー満載、自分の体験や、信念と志を社会へ発信

 超高齢化社会、定年後も長い人生が続く。とはいっても1回きりの人生をどのように生きるかは重大な問題だ。経済界で活躍されたお二人が、これまでの人生で、体験したことや、なおも志を持って生きていることを書き残し後世に伝えたいと、本を出された。いずれも思い入れたっぷりに綴った300ページを超すパワー満載の力作だ。とてもエネルギーのいる執筆だが、それだけ意義のあることだ。

 私の新聞社時代の先輩でもあった萩尾千里さん(85歳)は、『もうひとつの二刀流―新聞記者と財界人、生涯貫く記者魂』 を2022年6月下旬に出版。その1年後、逝去された。ご冥福を祈り、追悼する。もう一人は私の在住する大阪府泉大津市に生まれた若林公平さん(73歳)で、郷里の祭についての研究書『泉大津濱八町だんじり祭(続)』を4月に刊行した。著者の生き方やプロフィール、それぞれの著書の趣旨や内容などをリポートする。今回はこれまでの連載とは形式を変えており、番外編としてお読みいただきたい。

■萩尾千里さんの『もうひとつの二刀流―新聞記者と財界人、生涯貫く記者魂』転身の度に飛躍、持ち前の先見性や胆力で乗り切る

『もうひとつの二刀流』の表紙 (朝日新聞自分史事務局提供)

 新聞記者27年、財界人として35年という稀有な体験の持ち主である萩尾千里さんの自分史は、単に自分の人生を書きとどめるだけでない。その動機は、ロシアや中国の覇権主義や新型コロナウイルスのパンデミックなど混沌とした世界、さらにはネットの普及から若者の新聞・テレビ離れの現状を見かね、自らの体験を踏まえた提言の発信を思い立ったからだ。

著者の萩尾千里さんの近影

 萩尾千里さんは1937年に愛知県で生まれる。8歳で終戦を迎え熊本へ移り住んだ。高校の時は野球に没頭し、野球の強豪であった関西大学の商学部へ進学。大学卒業後の1960年に日刊工業新聞社へ入社し、69年には朝日新聞社に中途採用される。その後、1987年に関西経済同友会の常任幹事・事務局長に就任し、さらに2006年から6年間、(株)大阪国際会議場の取締役社長を務めた。

萩尾千里さん(後列左)の熊本での家族写真(1957年、前列中央が父、左が母)
朝日新聞自分史事務局提供

 筆者は半世紀前の1968年に日刊工業新聞社に入社して萩尾さんと出会い、70年に朝日新聞社に入り、再び同じ新聞社に籍を置いた。転身の度に飛躍を重ねた波乱万丈の萩尾さんの人生を、私は尊敬する先達として眺め、時折顔を合わせた際は、近況をお伺いしていた。その萩尾さんから年初めに連絡があり、久々に懇談した際、近く自分史を出版することを聞かされた。

 本の内容は、「ジャーナリストとして」「財界人として」「多様な海外との絆」「肥後もっこすの末裔」「次代を見据えて」の5章で構成されている。「ジャーナリストとして」の冒頭に書かれているのが、八幡製鉄と富士製鉄の合併をスクープした話だ。日刊工業新聞大阪支社の神戸支局へ配属され鉄鋼を担当していた1968年当時、萩尾記者が富士製鉄の社長だった永野重雄氏に会い、1年前から追い続けていた八幡製鉄との提携について直接聞き出したのだ。

 ところが日頃の付き合いから毎日新聞記者にも情報を漏らし、両社のスクープとして報じられた。もちろん両社は東京にいる八幡製鉄の稲山嘉寛社長に確認を取り、翌朝の新聞に掲載する。しかし両社の締め切り時間の違いから、毎日が一面トップで大々的に扱ったのに対し、締め切りが早かった日刊工業は準トップで見劣りしてしまった。

八幡と富士製鉄合併を報じるスクープ紙面(1969年、日刊工業新聞)
朝日新聞自分史事務局提供

 そうしたエピソードなども詳しく記されているが、このスクープがきっかけとなり、朝日新聞社からの誘いがあったのだ。その頃、「記事で抜かれて人を抜く」と週刊誌に掲載されたこともあったが、人材の優れた朝日への転職は本人にとっては大きなプレッシャーだった。当時の心の葛藤も綴られている。

財界との野球大会に朝日新聞の一員として出場(1977年、大阪球場で)
朝日新聞自分史事務局提供

 関経連会長人事や関西国際空港、けいはんな学研都市(関西文化学術研究都市)などの報道、関西財界訪中団の取材など新聞記者として27年を経験した萩尾さんは、財界人として35年活動することになる。こちらも急な関西経済同友会事務局長への打診だったが、朝日新聞の理解もあって、大阪編集局長から「同友会出向を命ず」といった送別会でのジョークもあり、円滑に転身できた。その時、49歳だった。

25回目を迎えた財界セミナーでの記念撮影(1987年、国立京都と国際会議場で)
朝日新聞自分史事務局提供

 思いもかけない新天地となったが、次々と難題が持ち上がる。関西空港や梅田北ヤードの再開発といったビッグプロジェクト実現の道筋や、日中正常化と交流促進などに取り組む。

来阪の胡錦涛・中国国家主席を出迎える 萩尾千里さん(2008年、中之島ロイヤルホテル)
朝日新聞自分史事務局提供

 とりわけ2000年に日本共産党の志位和夫書記局長との対談があった。赤旗記者からの声がかりで、当初は代表幹事にとの要請だったが、行きがかり上、自身が引き受けてしまった。経済界が嫌がり、右翼が不穏な動きをみせ、公安警察からも連絡が入る騒ぎとなった。その顛末にも紙数を割いている。

関西財界と日本共産党の対話を伝える共産党機関紙『大阪民主新報』(2000年)
朝日新聞自分史事務局提供

 この対談は後日、共産党の機関紙『大阪民主新報』特集版に全文掲載される。萩尾さんは共産党綱領も読み、「米帝国主義」とか「独占資本の横暴」といった古い言い回しなどを批判する。志位さんから「資本主義の枠内で民主的な改革を進めたい」との言葉もあり、日本の経済や未来をめぐって率直な対話となり、結果オーライでしのいだ顛末も回顧している。

 20年間務めた関西経済同友会の仕事に区切りをつけた萩尾さんに、またしても転身の話が舞い込んでくる。大阪財界と府が折半出資した大阪国際会議場社長の要職である。初めての実業の世界への挑戦となり、企業経営に飛び込む。赤字が予想された会社だが、イベントの誘致など積極経営で乗り切り、約40億円の余剰金を残して勇退した。

夏の高校野球で優勝した藤波晋太郎投手と西谷監督(2012年)朝日新聞自分史事務局提供

 「多様な海外との絆」では、朝日新聞編集委員時代に知己を得たハーバード大学のエズラ・ヴォーゲル教授(2020年死去)との協議で、アメリカで関西経済同友会と大学の定期シンポジウムを開設し、日米友好親善に貢献している。

ハーバード大学とのシンポジウムでエズラ・ヴォーゲル教授(左)と
中央の 萩尾千里さん(2010年、ボストン)朝日新聞自分史事務局提供

 最後の「次代を見据えて」の章では、今日の国際・国内社会に向け多くの提言をしている。ライフワークとして経済交流に尽力を傾けた中国について、近年の覇権主義を背信といった表現で舌鋒は鋭く批判している。日本の安全保障についても、地政学的にみた抑止力の強化を提唱し、改憲へのありようにも迫っている。
 あとがきで、ロシアら中国の覇権を見据えて、国の在りかたとジャーナリストの役割について次のように言及している。

 今こそ、我が国は総力を挙げて、自由、民主、人権、法の支配という普遍的な価値観を共有する諸国との連携を拡大、強化すること。同時に侵略の隙を与えないように抑止力を固め、自分の国は自分で守るという国民意識を醸成すること。それなくして国を守れない。(中略)日本の社会は強い縦構造になっている。横の関係を結びつけるつなぎ役がない。その壁を破り、自由な発想、行動ができるのはジャーナリストである。私は子ども心に太平洋戦争の悲惨さを覚えている。その轍を二度と繰り返してはならない。それだけに政治家とジャーナリストの責任は重い。

 萩尾さんは、取材する側と、される側の利害が相反する立場にあって二刀流をこなしてこれたのは、記者として培ってきた先見性、洞察力、構想力、胆力などが、両極にあった立場を融合させるエネルギーになったと思われる。
 この本のタイトル「もうひとつの二刀流」について、萩尾さんは時流に悪乗りした感もあり本意ではなかったが、何度も読んだ編集者の薦めに譲ったそうだ。とはいえ前文に「我が自分史も、思えば努力の積み重ねとしたたかさの二刀流であったのではないか、と自問自答しつつ筆を運んだ」と記している。
 なお『もうひとつの二刀流―新聞記者と財界人、生涯貫く記者魂』は、『新聞記者のち財界人 リーダーたちと考えた国の行方』(2022年9月1日、かもがわ出版)と改題し、書店でも販売されている。

■若林公平さんの『泉大津濱八町だんじり祭(続)』「ふたたび、百年後の祭好きに贈る」と郷里に貢献

著者の若林公平さんの近影

 若林さんは1949年に泉大津市で生まれ、高校まで大阪で過ごす。1972年に東京大学法学部卒業後、川崎製鉄株式会社(現JFKスチール)に入社。2007年から4年間、JFKスチール・JFKホールディングス副社長、その後2015年まで監査役を歴任している。現在は千葉市在住だが、実家は泉大津市にあり。毎年秋のだんじり祭には、学生時代はもちろん、社会人になってからも、故郷に駆け付けている。

 「だんじり」は、祭礼で曳き出される「だし」を指す西日本特有の呼称で、漢字では「楽車」「壇尻」「台尻」「段尻」「山車」「地車」などと表記される。大阪府南部では「地車」が一般的だ。「だんじり」 と言えば、岸和田のことを思い浮かべる人がほとんどだ。しかし大阪府下だけでなく、兵庫県、さらには中国や四国地方にも広がり、台数は約2000台におよぶ。

 江戸時代中期に始まった「だんじり」の歴史で、岸和田より泉大津の方が古いことを示す文献がある。本場の岸和田に近い泉大津にも20台あり、本のタイトルになっている大阪湾沿いに広がる旧市街の濱八町に8台がある。濱八町から少し離れたわが家にも、秋になれば太鼓や鉦、笛の囃子の響きが聞こえてくる。 

大津神社への「だんじり」の宮入風景(2015年10月)

 疾駆するだんじりが四つ辻にさしかかり、急旋回し、直角に曲がる様子は迫力満点。そして神社の前に止まっているだんじりに後方から別なだんじりがぶつかると、見物客の歓声は最高潮に達す。この「カチアイ」は岸和田にはない。五穀豊穣の象徴として男女の性愛をおおらかに神事化した「カチアイ」神事が行われている、ただ一つの場所が濱八町なのだ。

地車どうしの「カチアイ」直前の様子(2013年10月) 

 若林さんにとって、太鼓の音に心浮き立ち、幼少期から夢中になって追いかけた「だんじり」の魅力は、大人になっても変わることがなかった。それどころか曳き手となり、やがて地車に乗って運行を指揮し、祭の運営に携わる役員となって、だんじり祭に接してこられたのだ。

泉大津の「だんじり祭」で記念写真の若林公平さん(1999年頃、白ハッピの左端)

 「だんじり愛」の若林さんは、「会社を辞めたら泉大津の祭に何らかの貢献をしたい」との思いを持ち続けていた。泉大津には江戸期のだんじりの起源を示すような書物は皆無だった。それが「百年後の祭好き贈りたい」と、本を書き遺そうとの思いにつながったという。

若林公平さんの属する宮本町の地車(2016年の修復時)

 長い会社勤めを終えた2015年秋から歴史や民俗、地車の工芸など総合的な研究を始め、 1 年半かけて、文献や郷土誌などを調べ、古老や関係者からの聞き取り、写真の収集を続けた。東京からの取材活動のための帰省は15回以上数えたという。うれしいことに、 一面識もない方々にも取材に応じていただき、熱き思いを滔々と語られたそうだ。

2016年の入魂式での記念写真。後列右から2人目が若林さん(菊池和雄さん撮影)

 こうして2017年4月、『泉大津濱八町だんじり祭』の出版にこぎつけた。それに満足せず、取材活動を濱八町から西日本各地の地車に広げ、2冊目の『だんじり そして地車』を2019年5月に出す。そこには、濱八町だけで行われている独自の「カチアイ」神事の由来なども記されている。

『泉大津濱八町だんじり祭(続)』の表紙

 そして今春には、3冊目となる『泉大津濱八町だんじり祭(続)』(A5判、320ページ)を著したのだ。今回は、前2作で書き残したもの、濱八町それぞれのだんじりの故事来歴、地車の彫り物など意匠についても詳しく紹介している。カラー写真や図版がふんだんに掲載され、表紙には、同市出身の壁画絵師として知られる木村英輝さん(1942 ―)作の《地車屏風絵》(現在、泉大津市に寄贈)が使われている。

木村英輝さん作の《地車屏風絵》

 本の主な内容は、第1部「濱八町のだんじり祭」の概観、第2部「各町のだんじり祭」に加え、「岸和田藩士熊沢友雄日記に見る幕末・明治初期の岸和田祭」と、「神戸生田神社絵巻の船形曳車に関連した一考察」も付記されている。

 若林さんは、 濱八町の宮本町に属し、1冊目は、その歴史を紐解き、2冊目は関西のみならず中国や四国地方にも足を延ばし、その起源や発展を考察し、3冊目は宮本町を含め濱八町のそれぞれの歴史を詳細に記し、より深く考察したのだ。

「だんじり」の顔である濱八町の地車鬼熊(2021年)

 2020年には原稿がほぼ仕上がり、新しい祭の写真を加えたいと思っていたところ新型コロナの影響で祭が中止になり、昨年も実施されなかった。ただその間、新しい資料の発掘や提供もあり、付け加えられた。若林さんは各地の取材に飛び回り、東証一部上場の大会社役員の名刺の効用はない、何の肩書もない名刺を2度にわたり作って、300枚以上も使ったといいう。

 5月のゴールデンウィーク、帰省していた若林さんと、祭礼で宮入する大津神社のすぐ前に買い求めたというセカンドハウスでお会いした。「今年の秋は3年ぶりの祭が開催できるでしょう。祭はとにかく楽しい。あの高揚感といったら別格です。だから待ち焦がれます」と、屈託のない笑顔が返ってきた。

宮入終了後、吹きちりをたびかせて運行する宮本町地車(2019、菊池和雄さん撮影)

 新刊の序に、「ふたたび、百年後の祭好きに贈る」と題して、「百年後に現れた祭好きが自らの祭の歴史を知りたくなった時、読み返し、これからの百年分の祭の歴史を付け加えてもらえれば、自らが生き、祭に参加し続けた者として、この上ない幸甚である」と記している。

 これまでの3冊はいずれも自費出版で、取材費用を除いても1冊約300万円にもなる。贈呈を前提とした出版だったが、大阪を中心にだんじり団体や愛好者らからの注文で800冊も捌け、約200万は回収できたそうだ。今回も一般販売はしていないが、地元の泉大津谷大雅堂書店(0725-32-7983)にて、4000円で販売している。希望者は問い合わせてほしい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?