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拉致と核、国交のない北朝鮮の旅  いつまで続くのか「近くて遠い国」

 国交のない北朝鮮への旅は、少なからず勇気が要った。何しろ拉致をはじめ核・ミサイル開発など難題山積で日本との関係は冷え、外務省からは渡航自粛の通達が出されていた2005年9月、北朝鮮の土を踏んだ。渡航の目的は、同国で初めて世界遺産に登録された高句麗遺跡調査だった。小泉純一郎・元首相が北朝鮮を電撃訪問し、金正日・朝鮮労働党総書記と日朝首脳会談をしてから3年後のことだ。その後、首相が交代しても、日朝国交正常化は進まず、小泉訪朝から来年9月には20年の歳月が流れることになる。国際政治の動向はともかく、私にとって思い出深い訪朝の記録を伝えておこう。

■故 金主席大銅像前で献花が習わし

 私が高句麗壁画に関心を持ったのは、世界遺産指定への動きと、その壁画の影響がある高松塚とキトラ古墳の劣化が同時進行のように伝えられたことによる。紀元前37年頃~668年にかけて中国東北部から朝鮮半島にかけて栄えた高句麗発祥の地である中国の桓仁(かんじん)と発展の礎となった集安(しゅうあん)に赴き、鴨緑江(おうりょっこう)をはさんで国境を接する北朝鮮を訪ねたいとの思いに駆られた。そして韓国のソウルで開かれた高句麗学会に出席し高麗大学博物館で開催の高句麗の展覧会を見て、平壌と近郊の壁画古墳を訪ねる機会を窺っていた。

 そんな時、日本にある高句麗会の永島暉臣愼(きみちか)会長(当時)から誘いがあり、立命館大学の和田晴吾教授を団長とする京都・大阪の研究者グループに同行して実現した。一行14人は9月中旬、関西空港から中国の大連経由で瀋陽(しんよう)から、北朝鮮の平壌へ高麗航空で入国した。中国での入、出国を経て約7時間後に平壌空港に着いたが、直行便が運行されれば2時間余の近さなのだ。日本の旅行社を通じ入国許可を得ていて、パスポートへの記載はなく、全員の顔写真を貼った一枚の書類での発給だった。

 瀋陽の空港から高麗航空で平壌へ飛び立った。一時間そこそこで着く。飛行機の着陸が迫ってくると緊張感が高まった。所持品などの厳重チェックや、尋問などを予想していたからだ。ところが杞憂に過ぎなかった。パソコンやビデオも含めフリーパスだった。ただ携帯電話には厳しいと聞いていたので持込みを自粛した。同行者の数人はカバンを開けらされたが、時間もかからず全員無事に入国できた。空港内でつばの大きい帽子を被った軍人にカメラを向けても咎められなかった。

01 ピョンヤン空港

高麗航空で中国・瀋陽から到着したピョンヤン(平壌)空港


 入国後は朝鮮国際旅行社から日本語の流暢なガイドとその上司が笑顔で待ち受けていた。旅行中、この二人の指示に従うことになった。早速、夕食会場へバスに乗り込んだ。早速、ビデオ・カメラ撮影について注意がなされた。車窓から街の撮影は認められたが、今後の遺跡調査の際に農村や村人の撮影は厳禁とのことだった。

 ホテルは大阪の中之島のような地形の羊角島(ようがくとう)にあった。8日間で約30万円もした旅行代金に含まれていたのは外国人向けの国際ホテルで五つ星。47階建てで500人は裕に泊まれそうだ。最上階には回転レストランまで備わっていた。到着するなりパスポートは、ホテルフロントに預けなければならず、返してもらえるのが帰国時だという。要は身柄を担保されたようなものだ。さらに現地通貨へ両替することが出来なかった。ホテルや私たちが訪ねる店では円と元、ユーローを使うことが出来るという。驚いたことに、1円単位の釣り銭まで用意されていた。

02 眺望

宿泊した羊角島ホテル24階からの眺望。島を囲み流れる大同江

03 展望レストラン

高層ホテルの展望レストラン


 翌朝、最初の訪問地は故金日成主席の生家のある万景台を訪ねた。地方から多数の人が整然と列を成して見学に来ていた。女性ガイドが日本語で流暢に説明してくれた。1994年に心臓病で亡くなった遺体は永久保存されており、「国民の心臓の中に生きている」と語りかけていた。


 さらに故金主席の還暦を祝って創られた大銅像のある万寿台に赴いた。主席の銅像は左手を腰にあて、右手を上にかざし人民の進路を指し示しているとか。背景の白頭山壁画は高さ12.85、幅70メートルの石のモザイクで造られていた。外国人客はまずここで献花をするのが習わしだという。私たちの代表者も従った。

04 大銅像

万寿台にある故金日成主席の大銅像


 その後、貸切バスで平壌城に移動した。城壁は東が大同江に沿って北上し、最高部の北城から牡丹峰公園を通って南西に下り、普通江に沿って続いている。高句麗時代の名残をとどめた建物は朝鮮戦争時、アメリカ軍の爆撃で破壊され、戦後にいくつかの建物を復旧したという。

05 玄武門

平壌城の玄武門

■装飾壁画の保存・公開に工夫

 連日、ホテルから近郊にある高句麗遺跡を巡った。遺跡のほとんどが田舎の田園地帯にあった。バスの車窓や古墳の高台からは農家の暮らしを見受けることができた。コメやジャガイモ、トウモロコシの田畑が広がり、リンゴやスモモも栽培していた。日本の田舎の風景と大きな隔たりは感じなかった。もちろん住民らと接触することはご法度だ。日本で伝えられていた貧農や食料難の実態は東北部に行かないと分からない。

 今回の旅でのお目当ては装飾壁画の見学だった。最初の壁画古墳は安岳3号墳だ。墳丘は方台形で縦横約30メートル、高さが6メートルもあり、緑も鮮やかな芝生で覆われていた。しかし墳丘には開口部はなく、近くの事務所から入った。すぐに地下に下りる階段があり地下通路をくぐって墓室の入り口にたどりつく構造だった。こうした羨道によって外からの空気の侵入をできるだけ防ぐ仕組みになっていたのだ。

06 安岳3号墳

芝生の美しい安岳3号墳


 暗くて長いトンネルを通る間、次第に期待に胸の動悸が高まった。いよいよ前室へ。入ってすぐに目に止まったのが左側壁面に墓主と見られる人物像が描かれ、その頭上に墨書が認められた。これが墓誌なのかどうか判明できないという。そして西側室の正面に王と思われる威厳のある姿が目に飛び込んできた。ガラス越しとはいえ、まぎれもなく「実物」が目前にあると思うと興奮を覚えた。飛鳥美人の高松塚とは異なるものの、冠と華麗な衣装が鮮やかだった。王に向かって左の方には王妃が描かれているのだが、ガラスで仕切られた狭い場所からは残念ながら死角になった。墓主は「高句麗に亡命した燕の人・冬寿か、高句麗の国王なのか」。依然ナゾに包まれたままだ。

07 墓主図

安岳3号墳に描かれた墓主図『高句麗壁画古墳』(共同通信刊から)


 一方、前室の東壁の左側には、互いに裸になって褌を締め、拳を振り上げ争っている力士図が描かれているのに興味を引いた。日本の相撲の張り手に似た感じだ。こうした相撲を描いた壁画は、中国・集安の4世紀末の角抵(かくてい)塚や5世紀中頃の長川(ちょうせん)1号墳にもあり、そのルーツが中国大陸で、国勢が北へと異動し、密接な交流の歴史をうかがわせるものだった。

08 相撲図

安岳3号墳に描かれた相撲図『高句麗壁画古墳』(共同通信刊から)


 徳興里古墳は1976年12月に発見されたが、玄室に入る通路入口の上部に墓誌が記され、被葬者とその築造年代を知ることが出来る唯一の墳墓だ。それによると被葬者は高句麗の好太王(広開土王)408年に築かれたことが分かっている。

11 徳興里古墳

徳興里古墳の外観


 ここでは開口部から墓室に入ったが、入室に際し出口に置かれた換気する装置を動かし保存へ配慮をしていた。内壁には人物や政治、社会生活、風俗などが多彩に描かれていた。日本との関係を物語る天の川と七夕伝説や神社のお祭りなどで見かける流鏑馬(やぶさめ)なども描かれていた。

 とりわけ前室の天井には月像と天女や仙女などの空想的な信仰世界と、その下の壁面には幽州一三郡の太守が幽州刺史「鎮」に伺候している姿が捉えられた。懐中電灯を片手に、持ち込んだ壁画資料との確認をしていると約30分の持ち時間があっというまに経過してしまった。

 徳興里から約2キロ、壁画見学の最後に江西三墓に移った。三角形の南端に位置する大墓には、整備された開口部から入った。東西南北の壁面いっぱいに、東の青龍、西の白虎、南の朱雀、北の玄武が力強く迫ってくる。とりわけ青龍は真紅の舌を出し、胸を突き出し、頸に蛇蝮のような包帯をまき、三本の爪は荒々しい表現だ。また玄武も、あたかも生きている亀に蛇が巻きついている構図で絵画的に見ても傑作中の傑作だ。ここもガラス越しではあったが、四神美の極致といえるものだった。ここには人物や風習などの風俗画が排され、王族貴族たちの四神信仰の証しでもあったのだ。これらの古墳の片隅に、前年の7月に指定された世界遺産の登録を示す真新しい標柱が立っていた。

09 江西大墓

江西大墓前で筆者

10 玄武図

江西大墓に描かれた玄武図『高句麗壁画古墳』(共同通信刊から)


 こうした装飾壁画を見るには、一ヵ所に付き2万円を要した。現地の生活レベルから法外な値段だ。ただ外貨獲得のためだけとは思いたくない。古墳に人が入れば微妙に環境変化をもたらせるのでやむおえない一面もある。1600年もの歳月を経てなお鮮やかな色彩をとどめていたのには感動した。

 わが国では、奈良県明日香村のキトラ古墳を調査していた文化庁が「十二支像」の一部を赤外線写真で公開した。すでに石室内の天井に天文図、四面の壁に四神図の彩色壁画が確認され、その後に解体された。それより先、約1キロ離れた高松塚古墳でも同じような朱雀を除く四神図や天文図、そしてあの「飛鳥美人」で知られる人物像の大発見があった。中国由来の守り神とされる四神を描いた壁画古墳は、明らかに高句麗遺跡に数多く散在する壁画古墳との類似性があり、その影響があったと見なされている。

16 調査

研究メンバーの調査風景

■板門店近くの民俗旅館で一泊

 壁画以外にも、朝鮮民族の始祖とされる檀君陵や、高句麗建国の始祖王である東明王陵や、高句麗時代に大伽藍のあった定陵寺址、真坡里・雪梅里古墳群など数多くの古墳などを外観した。

13 東明王陵

高句麗建国の始祖王である東明王陵

14 ガイド

東明王陵の入り口で説明する北朝鮮ガイド

15 定陵寺址

高句麗時代に大伽藍のあった定陵寺址


 平壌では、観光スポットの金日成広場や、その一角にある朝鮮中央歴史博物館へも二度訪れた。1945年に開館し、展示品も豊富だった。櫛目紋土器や支石墓,遼寧式銅剣、銀の帯金具、馬具、銘文城石などが展示されていたが、高句麗室を中心に鑑賞した。壁画古墳の内部構造もそっくりに復元されていて楽しめた。

17 記念撮影

金日成広場でメンバー 一行の記念撮影

18 朝鮮中央歴史博物館

朝鮮中央歴史博物館の建物外観


 この博物館前では、後述するアリラン祭に出演する学生らのマスゲームの練習が行われていた。炎天下にも関わらず黙々と指揮者の指導を受けていた。日本人にとっては異様な光景に見えた。遺跡調査とはいえ、いくつかの観光も組み入れられ、中央テレビ塔や遊覧船での食事もあった。また私たちの希望で市街地の書店も立ち寄ることができた。公園では若い男女がデートを楽しんでおり、結婚したカップルが記念写真を撮っていたり、平壌市内に関しては、日本の報道で伝えられる深刻さは見受けられなかった。

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アリラン祭に出演する学生らのマスゲームの練習

20 結婚カップルn

結婚したカップルの記念写真

21 結婚カップルと一緒に

結婚カップルと一緒に記念撮影(左端が筆者)


 滞在中、事前に提出した要望が現地で認められ、高麗の王都、開城(ケソン)へ一泊で行くことが許された。ここは北朝鮮で二番目の世界遺産の候補に上っている所だ。開城まで160キロ、要所に故金主席の肖像画や労働党のスローガン看板を散見しながら高速道路を南下した。中継地点に瑞興茶房という粋な休憩所があり、コーヒーを飲んだ。手持ち無沙汰な従業員らがビリーヤードを楽しんでいた。高官の子弟だと想像した。

12 世界遺産の標識

高句麗遺跡には、どこにも世界遺産の標識


 途中、成仏寺に立ち寄り、夕刻に到着した。韓国との軍事境界線のある板門店も開城市域で、私たちの宿泊地から目と鼻の先にあり、ソウルにも近い。開城は、高句麗滅亡から四半世紀が過ぎた918年出現した高麗の首都として築かれた。壮麗な宮城の面積は約39万平方キロもあったという。400有余年続いた都も王宮址に満月台などいくつかの礎石や痕跡をとめるのみだ。

23 満月台

高麗時代の開城の満月台


 私たちは高層ホテルとは打って変わってオンドル設備の古風な民俗旅館に泊まった。今にしてみれば、有意義な一夜になった。ガイドの上司の北朝鮮国際旅行社の李成烈主任も同行していて同じ宿に泊まったからだ。国際旅行社といっても国家機関の一つだが、地方に出張していることもあって打ち解けた。私たちの部屋を訪れ一瓶50円のビールを飲みながら、深夜まで懇談した。

22 民族旅館

開城の古風な民俗旅館


 私は率直に「拉致問題が解決すれば、大いに上向くのではないでしょうか。近くて遠い国の観光は新鮮で魅力がありますよ」と持ち上げた。李さんは「不幸な歴史が続いたのです。私たちは日本が私たちを統治していた時代があったのです。過去の話より、これからの交流が大切です」と主張した。

 私は「拉致は現在の問題なのです。人間の自由を奪うことは許されますか。拉致したことは金正日主席も認めています。拉致は国家犯罪ですよ」と詰め寄った。「私たちは詳しく知らないのです。国が対応していることを信じています」と平行線をたどった。この間、李さんは、金主席の「人間本位のチュチェ(主体)思想」について力説した。私も食糧危機のことや核開発のことなどを問い「このままでは国際的に孤立する」と強調した。

■10万人が演じる「アリラン祭」も観賞

 帰国の前夜、李さんに誘われ、私と研究者の2人が開催中のアリラン祭に出向いた。この年、日本から独立してちょうど60年の節目に当たり、朝鮮労働党創建60周年の記念事業として例年以上に盛大との触れ込みだ8千円の席にした。15万人収容のスタジアムは空席も目立つ。意外と中央のいい席が取れた。双眼鏡を500円で借りた。

24 アリラン祭

国威発揚の場でもあるアリラン祭


 何しろ10万人のマスパフォマンスだ。観客を歓迎するパン正面の観客席は8千人の人文字が瞬時に切り替わっていく。スタジアムでは「朝鮮民族の出現と神々」「日本に侵略される朝鮮半島」「朝鮮半島の分断」「金日成主席の手によってよみがえる北朝鮮」「南北統一を願って」といった筋立てだった。

25 ステージ

10万人が演じた華麗なステージ


 「虐げられた苦難の道を乗り越え、祖国統一の希望」を謳いあげた壮大なドラマ仕立てだった。日本人にとっては皮肉なストーリだが、北朝鮮の人たちにとっては、国民性を鼓舞する演出といえるのではなかろうか。まさに外国人向けの外貨獲得策であり、一石二鳥2時間の公演で、歌と踊り、はたまたサーカスや美女軍団の出演、さらには映像やレーザー光線まで駆使しての催しには感心した。双眼鏡で見ると、出演者の表情まで見て取れる。小学生らも大量に動員されている。精一杯の演技に酔っているようだ。ガイドは「すばらしかったでしょう」と誇らしげに胸を張った。

 アリラン祭は毎年実施されているわけではなさそうだ。かつては節目の記念行事と国威発揚のため行われた。近年は外国観光客を見込んで恒例行事化していた。2006年はミサイル発射の国際非難から洪水被害を名目に、07年も大同江の洪水で多大な被害があり、中止されている。

 ホテルへの帰路、華やかなステージは一転し再び暗闇の道をたどらなければならない。そこにこの国の真実が秘されているのでは思わずにおれなかった。私は政治の怖さを自覚した。かつて私たちも国を信じ、同じ道をたどってきたのだ。

 高松塚やキトラの源流でもある高句麗遺跡の保存は、日本にとっても大きな関心事といえよう。しかも世界遺産の高句麗壁画は人類共有の財産だ。この登録に貢献された平山郁夫・ユネスコ親善大使は高句麗保存センターの建設にもユネスコルートで民間レベルの支援を続けた。日本の文化は大陸、半島と深く結びついている。広域的な東アジアの歴史観への視野が求められている。文化の交流や人の往来が政治や経済問題を超えて必要なことを痛感した旅だった。北朝鮮が「近くてさらに遠い国」ではなく、いつの日か「近くて近い国」になってほしい。

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