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日本と韓国をめぐる不幸な歴史に向き合う旅— ソウル 日本で処刑、埋葬されたテロ犯、祖国では英雄・銅像に

 日本と韓国の不幸な歴史の中で、尹奉吉(ユン・ボンギル)が1932年に起こした「上海爆弾事件」があった。尹はテロ犯として、金沢で処刑、埋葬されたが、戦後になって掘り出され、母国に埋葬し直された。私が朝日新聞金沢支局に在任していた1991年に、この史実を知った、時を経て2004年6月になって高句麗研究の学会と、韓国中央博物館などの美術品見学に出向いた際、尹の墓や記念館を訪ねた。尹は英雄として祀られ、慰霊碑や銅像まで建

尹奉吉(ユン・ボンギル)

立されていた。1909年にハルピン駅で伊藤博文・前韓国統監を暗殺した安重根(アン・ジュングン)の名は、日本でよく知られているが、尹のことはあまり知られていない。私にとって、一つの史実に目を向け、歴史を考える旅となった。今後の日韓関係を考えるためにも、あらためて書き留めておく。

独立運動の義士として教科書にも紹介

 その日、ソウルの目抜き通りは燃えるような熱気だった。イラクの武装グループに拉致され殺害された金鮮一(キム・ソンイル)さん事件に対し、政府への抗議集会が開かれていた。何万人もの民衆と大勢の警察機動隊員が周囲に配置されていた。
 

金鮮一(キム・ソンイル)さん事件に対し、政府への抗議集会(2004年6月)

大音響のスピーカー音の流れる本部の傍に金さんの遺影が飾られていた。私は手を合わせカンパした後、そこをすりぬけタクシーに乗った。その約70年

金鮮一の写真を掲げカンパ活動も

前、軍事大国だった日本にとってテロ犯であった尹の遺骨が葬られている孝昌(ヒョチャン)公園に赴くためだ。何という歴史的なめぐりあわせだろう。歴史に翻弄される人間の業を考えずにはいられなかった。
 尹奉吉は1908年(明治41年)、忠清南道礼山に生まれた。彼は塾、書院、普通学校そして中学校と進み、共産主義思想を学び始める。唯物史観、弁証法、資本論などの読書会に参加したことが、後の農村復興運動につながった。青年時代になると、郷里で貧しくて学校に行けない児童らを集め夜学を開き、『農民読本』を発刊する。1930年に中国の上海に移り、工場で働きながら金九(キム・ク、雅号:白凡)が組織していた独立運動「愛国団」に参加し、上海に亡命する。
 

「上海爆弾事件」を伝える『大阪朝日新聞号外』(1932年5月1日)

 そして1932年4月29日、上海事変の勝利と天長節を祝う集会が開かれている日本人街の虹口公園で爆弾テロを起こした。上海派遣軍司令官の白川義則と日本居留民団長の河端貞次らを死亡させ、上海駐在公使の重光葵(後の外相)に片足切断の重傷を負わせた。
 

「上海爆弾事件」(1932年)のイラスト図

 尹はその場で逮捕され、5月25日に上海派遣軍軍法会議で死刑を宣告される。12月19日には金沢の陸軍第9師団司令部に送られ、12月19日に石川県金沢・三子牛山の金沢陸軍作業場で銃殺された。銃殺刑が執行される直前、尹は「目隠しは要らぬ」と、きっぱり拒んだという。国を思う青年の強い意思が受け止められる。
 

「上海爆弾事件」を伝える韓国のパンフレットテル)

 その遺体が陸軍墓地への参道に埋葬されていたのが、後に発覚し、日韓の国民に衝撃的な波紋を招くことになるのだ。なぜなら韓国内で「尹は日韓併合に反対した英雄」として評価されていたからだ。
 日本敗戦後の1946年、尹は在日韓国人により野田山公園墓地の参道から掘り出され、ソウルで葬儀を行った後に埋葬された。その生涯は独立運動の義士として讃えられ教科書にも紹介される。1988年には、ソウル郊外に記念館が建てられ、慮泰愚大統領が臨席し開館式典が開かれた。さらに1992年には公園の一角に約9メートルの銅像も建立された。
 

「道の下埋葬」の非人間性モチーフに小説

 1991年、朝日新聞金沢支局長として着任してまもなくのことだった。当時、金沢では埋葬地跡に慰霊碑建立の動きがあった。支局員のH君から、「韓国の記念館には金沢での銃殺写真や埋葬地の資料などが展示されています。戦前の暗い歴史を踏まえ、新しい日韓交流のためにも現地を取材したい」と海外出張の申し入れがあった。
 その頃の支局の実情では、進行形の事件取材でも無い限り、海外出張はそうそう簡単ではない。本社のデスクに相談したが、許可されなかった。H君の問題意識を汲みとってやれなかったことは、後々まで悔やまれた。
 2003年になって、再びこの事件と向き合うことになった。金沢時代から友人の女流作家、三田薫子さんは『花の舞踏曲』(文芸社刊)で事件そのものでなく、「道の下埋葬」に小説家としての目を向けた。巻末の解説を引き受けることになり、ゲラ刷りを精読したのだった。
 

三田薫子さんの『花の舞踏曲』(2003年、文芸社刊)

 三田は、死んでまで辱めをもたらせる「道の下埋葬」の非人間性をモチーフにした。犯人の尹は陸軍第九師団司令部のあった金沢の地で処刑され、遺体は陸軍墓地への通り道に埋められ、墓標も墓石も置かれなかった。「人が歩く道の下に人が人を埋葬する」――そのあまりにも哀しい「暗葬」の史実の痕跡をたどり、作家の想像力を一気に膨らませた。
 『花の舞踏曲(ワルツ)』の物語は、主人公である50の坂を超えた男の独り語りで展開する。金沢の旧家に育ち、父は教育家、自分は公務員の仕事を得て、美しい妻と娘に恵まれる。表面的には幸福な家庭の主なのに、心は満たされない。それもそのはず、妻の浮気を疑い続ける日々。こともあろうに相手は幼な友達の異母弟で、成長する娘もその男に似てくるとあっては、心穏やかであろうはずはない。三田は冒頭に「人間とはなんと孤独なものや」と記す。
 しかし『花の舞踏曲(ワルツ)』は、ドロドロした男と女のドラマを描いたわけではない。その仕掛けが、「上海爆弾事件」の犯人、尹への思いだ。仏心篤い地にあって「道の下埋葬」に心を痛め、慰霊する主人公。非合法なテロは許しようがないものの、限りない人間愛が底流にある。主人公は裏切った妻への復讐に燃えるが、最後は自分に銃弾を向ける。この理不尽な結末によって、三田は「人間の罪深さと愚かさ」を描いた。
 

金沢の尹奉吉暗葬の跡地

 「道の下埋葬」の尹奉吉の遺体は、戦後間もない1946年3月、埋葬時に経を上げた尼僧を捜し出した金沢に住む韓国人有志らによって掘り出され、本国に運ばれた。金沢市の野田山の一角には、爆弾テロから60年目の1992年、多くの寄金によって、大きな石碑の「尹奉吉義士殉国碑」が祖国に向けて建立された。尹徳敏駐日大使は2024年2月20日、尹奉吉義士暗葬の地及び殉国記念碑を、駐日大使としては初めて参拝し献花した。

金沢の埋葬地に慰霊碑建立計画を報じる1990年朝日新聞大阪本社社会面記事(1990年7月8日朝刊)
金沢に建立された石碑の「尹奉吉義士殉国碑」(1992年)

ソウルに墓地、郊外に記念館や銅像も

 私はH君と三田さんによって触発された史実に向き合う旅をいつの日か実現したいと思い続けてきた。ソウルで訪れたのは孝昌公園内にある国立墓地に出向いた。孝昌公園は約3万7千坪あり市民がくつろげる休息空間として

ソウルの孝昌公園内国立墓地にある尹奉吉の墓(2004年6月)

も広く利用されていて、墓地はその一角にあった。1946年に尹のほか李奉昌(イ・ボンチャン)白貞基(ベク・ジョンギ)の三義士の遺骨が安置され、 安重根義士も土まんじゅうが並置されてあった。

尹奉吉ら並置されている三義士の墓
三義士の銘文

 墓地は国の独立運動に貢献した英雄への生きた歴史教育の場にもなっていた。そして孝昌公園から車で約50分、「梅軒尹奉吉義士記念館」はソウル郊

ソウル郊外の市民の森に立地する「梅軒尹奉吉義士記念館」(2004年6月)

外の市民の森にあった。梅軒とは尹奉吉の雅号だ。門衛の方が「暑いところをようこそ」と迎えてくれた。記念館に入ると、受付の女性が、丁寧な応対で「二階も見て下さい」と声をかけていただいた。写真撮影も許可され、約1時間かけてじっくり見学した。
 

「梅軒尹奉吉義士記念館」の近影

 この記念館では、尹の誕生から農村復興運動、そして独立運動を志し、上海爆弾事件を決行し、ついには金沢市の三小牛山で処刑されるまでを、写真、再現画、書簡など豊富な展示物で顕彰している。尹が銃殺刑になる直前と直後の記録写真や、はりつけられた十字架の木材の1本がそのまま残っていて、保存されていたのが衝撃だった。
 

尹奉吉の全身像
尹奉吉の直筆。「家族を持っていない」の意。
「梅軒尹奉吉義士義挙 第66周年記念活動」(1998年)の資料

 館には歴代大統領が参観に訪れているという。しかし日本からの観客が少ないのであろうか、残念ながら日本語の解説や資料が無かった。写真集や文献、パンフレットなどを入手したが、個人で訪ねたことへの感謝だったのか、全部合わせ日本円で1000円しか受け取らなかった。
 

金学俊著『梅軒 尹奉吉 評伝』(1992年、民音者)
1000円で入手した尹奉吉関係図書や資料
「梅軒尹奉吉義士記念館」前で記念撮影(2004年、右が筆者)

 館を出た後、公園内にある銅像を仰ぎ見ながら、尹の人生を考えた。彼は日本では軍の要人を殺傷したテロリストとして処刑されたが、祖国では当時横暴を極めていた日本に抵抗する動きを見せた英雄として尊敬を受けている。テロリストを「義士」扱いしていいのだろうか。動機さえ崇高であれば賞賛されるべきなのか、とも思う。
 

公園内にある「尹奉吉義士」の墓碑
「上海爆弾事件」を伝える記念碑

 この記念館には、尹の人生だけでなく、他の抗日運動についての説明もなされていた。当時の世界の流れがどうであれ、日本がアジアの他の国を植民地化するという愚挙を犯したのは紛れも無い事実だった。
 日本は1910年から35年間にわたって韓国を併合し支配した。尹の時代つまり1930年代、地下臨時政府の抗日運動の時代が近代韓国の再スタートであった。植民地支配で奪われた民族文化、誇りの回復により民族意識の高揚を目指し、苦難の抗日闘争を民族的団結・国家統合の根源とする歴史観が紀念館の展示を貫徹している。
 

公園内に建つ「尹奉吉義士」の銅像
銅像の足元に刻まれた事件後連行される尹奉吉義士様子

 日本は韓国併合の後、1932年に「満州国」を建国したが、国際的に認められず、国連を脱退する。さらに第1次上海事変を起こした。中国国民党は退却作戦をとった。上海派遣軍司令官の白川大将は、4月29日に戦勝記念式典を上海の虹口公園で挙行した。その時、尹は爆弾事件を起こすことになったのだ。

尹奉吉が1930年まで住んでいた家

韓国の政権によって揺らぐ日韓関係

 私がソウルで宿願が果たせたのは、「冬のソナタ」のドラマで、空前の韓国ブームが巻き起こっている、さなかだった。1998年、当時の金大中(キムデジュン)大統領が来日し、日本向け太陽政策で日本の映画や音楽を解禁した。さらに2002年にはW杯サッカーの共同開催以降、「友好」の文字が踊り、文化の交流が進む。そして突然の日本社会における「冬のソナタ」ブームだった。韓国のホテルには、撮影舞台をめぐる日本人向けの一日ツアーのパンフレットが置かれてあった。
 

ソウル市内で見かけた「冬のソナタの看板

 日韓関係の進展を期待されたが、その後は進歩系の盧武鉉(ノムヒョン)、文在寅(ムンジェイン)両政権下で日韓関係は停滞どころか後退してしまった。竹島をめぐる領有権問題をはじめ、慰安婦、元徴用工など歴史認識の問題が表面化し冷え込んでしまった。

 ところが2022年、尹錫悦(ユンソンニョル)政権誕生で日韓関係は急速に改善が進む。しかし定着するかは予断を許さない。両国の政権によって揺るがない、若い世代が何を考え行動するかにかかっている。
                  × 
 2004年、私が宿泊したホテルのテレビは殺害された命乞いをする金さんの姿が何度も放映されていた。イラクでの事件は、尹が起こした「上海爆弾事件」とは政治的背景がまったく違う。しかし歴史はなぜかくも愚かな悲劇を繰り返すのか。人間は暗い歴史も忘れてはならない。こうした歴史に目を向けない限り、真の「友好」は望めない。

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