見出し画像

『シビル・ウォー』と『ジョーカー2』の狂気、邦題の退化

母をショートステイに預けて観てきました。
ハシゴして。
映画をハシゴして観るとチートと言うか、何だかデカダンな快感があります。
何だかデカダンな快感。
言いたいだけだ。

シビル・ウォー アメリカ最後の日
観る直前までアメリカ南北戦争を扱った歴史モノと勘違いしていました。現代空想モノでした。
実際にアメリカの分断が進んで内戦状態になったらどうなるのか、という”イフ”を扱っています。
なぜそうなったのか、どっちが民主党か共和党か、などは語られていません。あえて徹底的に触れないようにしていました。ま、賢いか。

脚本が練りに練られていました。
ウケる映画技法がてんこ盛りです。
ロードムービーであり、成長物語でもある。
ナイスガイの死、アイロニックな死、美しい自然との対比、どこか70年代風な陽気で退廃的な狂気、白痴的な場所でのスナイプ戦、内戦を知りつつ見ないふりで平和を保つ街、赤いサングラスの兵士が放った「What kind of American?(どの種類のアメリカ人だ?)」のセリフ、
メリハリやら対比やらオマージュやら、よくできた脚本と演出でした。
戦場、戦闘のリアリティも凄まじかった。
このたぐいのリアリティ追求は行くところまで行ったかな。(と『プライベート・ライアン』以降、毎回思っているかも)
今年のベスト2です。
赤いサングラスが忘れられない。
ただ邦題の副題『アメリカ最後の日』は蛇足でした。

ジョーカー  フォリ・ア・ドゥ
ジョーカー』の『2』ですね。
これは賛否が分かれるでしょう。
ミュージカルを楽しめるチャンネルが開いていない人には苦しいかも。
そう、これはミュージカルなのです。
前作のドロドロのワクワクをもっとくれーと思っている人がどれだけ楽しめるか、ちょっと疑問です。

主役のホアキン・フェニックスの異形いぎょうを楽しむ映画かもしれない。
顔もそうだけど、体型もかなりの異形で、惹きつけられる何かがあります。
どんな人生を送ればこんな背中になるんだろうって思いました。
その身体を見せつけられた後のダンスは、より狂気感が増します。
レディ・ガガの顔も、美形と言うより異形でしょう。
どこか目を離すことができないパワーを持っています。
そんな異形の2人の歌とダンスは記録映画として遺すべきですね。

ただやはり前作が凄すぎて、ボクには前作のウイニングランに思えました。
5年越しのカーテンコールで歌って踊って、それはなんだかなーという評価になってしまいました。

ちなみに副題の『フォリ・ア・ドゥ』は、フランス語で「二人狂い」という意味らしい。ここは邦題を考えようよ。

戦場にかける橋
なぜか突然1957年の古い映画です。米英合作。
BSの録画を上記2作を観た次の日に観ました。
タイの山奥で日本軍が戦争捕虜に橋を作らせる話です。
主題曲『ボギー大佐』で有名ですね。
軍の英語階級名が勉強できます。(英語階級名と言えば、『プライベート・ライアン』の原題『Saving Private Ryan』を『ライアン二等兵の救出』としなかったのは営業的に秀逸でした)

最新の映画を観た直後に70年近く前の映画を観るとクラクラしてしまいます。
隔世の感とはこのことか。
映画技術の進歩って凄いです。
進歩したのは技術、つまりテクノロジーだけはありません。
スリルや迫力を感じさせる演出センスも相当進歩したでしょう。昔の演出は間延びしてダサかった。
当時の人はそれでもハラハラしたのでしょう。
ただその頃の黒澤明の方が数歩先を行っていたかもしれませんが。

ちなみに原題『The Bridge On The Kwai River』を直訳すれば「クワイ川の橋」もしくは「クワイ川にかかる橋」となるのだけど、『戦場にかける橋』としたのは文学的にナイスプレーでしたね。
どうやら邦題に関しては退化したようで。

そんなことより、この映画の最後のセリフに驚きました。
クライマックスで銃撃戦やら爆破やらがあって、生き残った兵士が発した言葉です。
それは、
「狂気だ(Madness)!」
でした。
ちょうど前日観た2作品の共通点は「狂気だ」と思っていたところだったのです。
なかなかの偶然でしょう。

この映画の狂気は国家間戦争の殺し合う狂気です。
当時はそれが狂気だった。
今の感覚ではむしろ「正気」に思えます。
上記の現代2作品は国内の分断や差別があっての狂気です。
60年も経つと狂気も変わっていきます。
何が正気で何が狂気か、うつろっていくのですね。

狂気も相対的なんだ。善悪と同じように。
ただ一つ言えるのは、誰もが自分だけは狂ってないと思っていることだな。
いやいや狂った者勝ちかもしれないぞ。せいぜい狂った人生を送らねばなあ。それではまた。


いいなと思ったら応援しよう!