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澁澤龍彦 「高丘親王航海記」

なーんの役にも立たない本だ。
でも、私は夢中でページをくって読んだ。現れたのは色鮮やかで、明るくて、透明で、軽やかな世界だ。

これは、1987年に刊行された澁澤龍彦の数少ない小説だ。澁澤59歳。咽頭癌の治療、療養中にも執筆を続け脱稿。この年頸動脈瘤破裂で亡くなっている。高丘親王は実在した人物だ。平安時代、平城天皇の第三皇子として生まれ、幼年藤原薬子に可愛がられ育つ。政争に敗れ出家、空海の弟子として修行。東大寺仏頭の修理などを行うが、65歳で唐へわたり、翌年天竺に向けて広州から航海に出ている。ここまでが史実で、出航から親王が亡くなるまでを冒険譚に仕立てたのがこの物語だ。

幼いころからの憧れの地天竺を目指す親王と3人の年若の従者。老齢の親王を従者たちは愛情と親しみを込めて「みこ」と呼ぶ。一行は広州から東南アジアの海と陸を進む。物語は土地土地での出来事をそれぞれ章立てにした7章からなっている。澁澤自信を重ねるように、後半喉に病を得た親王は自らの死期を悟る。自身の身体で天竺に辿り着くことにこだわらず、自由に天竺と行き来する虎に自ら食われて亡くなる。その1年未満の旅だ。

葉の間の湿度や木々や土の匂い、潮の粒子を感じるような海の上の風、白く硬い岩山、、、。陸にあがり言葉を覚えた儒艮(じゅごん)、いい夢を食べるとよい香りのする糞をする獏、鳥の下半身を持つ同じ顔貌の美女達、、、。
物語の中で、親王はこだわりにとらわれず、心持ちも、時間軸にも自由だ。既に亡くなっている藤原薬子や空海和尚が立ち現れるのは、親王が思い出しているからではない。お互いに能動的に相見え、交感がされている、そういう現れ方だ。

物語の中の言葉にはっとし、心が震え、本を胸に当てて目を閉じ、深い息を吐く。この本に向き合うのは、大切で愛おしい時間だ。

この本は、幻想奇譚ではない。綺譚はパチンと風船が割れるたら消えてしまう、いっときの世界だ。けれど、この本があらわした世界はそうではない。澁澤龍彦が信じ、生きた真実の世界であり、澁澤という身体、存在とは、こういう世界を内包し、かつ含まれているウロボロス、入れこの関係だ。
また、この本は、その世界を私の中にも立ち上がらせた。澁澤龍彦が私の大脳辺縁系に直接投影した世界だ。まるで澁澤の身体の中に入ってしまい、澁澤の目で世界を見ているようだ。つまり、この本を経て、私は澁澤とつながり、そして澁澤の世界をインストールされたのだ。

それは、魂を自由に、軽やかに、いきいきとさせてくれる。個人に執着する必要なんかない。人とでも何とでも交感することができる。めぐることができる。過去とも未来とも誰とでも、今、結ぶことができる。うまくいかないことなんて、いっときの事。どこにでもつながっていくことができる。
軽やかに、自由になり、行動への原動力を得ることができる。

力をくれるのは、こういう役に立たないことだ。無駄なこと、役に立たないことがこれからの未来を作る力になる。だから、すごく、いい本だと思う。

ちなみに写真は文藝春秋のハードカバー。とても美しい本なので、機会があれば手にとってほしい。


#高丘親王航海記 #澁澤龍彦  #読書録 #ウロボロス







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