表現なんていらない、身体だ
2019年2月5日(火)三鷹市芸術文化センター星のホール Co, Ruri Mito 『Me Me』を観た。
何かを表現しようとしているダンスなんて、いらない。
身体は使役の対象じゃない。
身体が全てだ。
感情も、言葉も、メロディーも、全部、身体から派生したもの。
派生したものに踊らされるな。
身体は、その根っこだ。むしろ根っこが身体なんだ。
身体だけの存在になれ。それだけで踊れ。
そうすれば身体そのものが、交感してくるじゃないか。
それこそが踊りじゃないか。
踊りは交感、コミュニケーションじゃないか。
これを観る前と後とでは、踊りを観る目が変わる。
これからの時代のコミュニケーションは、ここまで行くのか。また、ここに行くのか。
公演概要と参照サイト
三東瑠璃振付構成、音楽、後藤正文による1時間強のダンス公演。9名の女性ダンサーが踊る。が、人間の身体の使い方をしない。頭がない形、床に張り付き、複数名がアメーバーのようにくっつき、重なり、お互いの中に潜り込み、絡まり合い、ちぎれ、またくっつく。どこまでが一人の身体なのかわからない。緩やかな動き。けれどどこかが必ずうごめいていて、決して『ストップ』していない。ぐちゃりと重なったダンサー達の身体は、まるで一つの生命体のようだ。1時間強、ずっと、その営みだけがひたすら続く。最後、ゆるいマグマが膨らんで、ボフッと破裂するように、積み重なり盛り上がったダンサーが、緩やかに、けれどある弾みをつけて破裂してバラける。けれど、また同じことが続くのだ。と、そこで終わり。
観客は舞台上に作られた雛段から舞台床のダンサーを見おろす形状。無人の客席が背景になる。確かにこの舞台は、観客とダンサーは同じ額縁の中にいるべきだ。
しかし、よくも頑固に耐えたものだと思う。ぶれずに作品にしきったものだと思う。終演後の三東瑠璃さんのメッセージ。写真あり。
『Me Me』のPVはないようなので振付構成の三東瑠璃さんのMatouのPV。
Co, Ruri Mito のサイト。
デジタルネイチャー時代のコミュニケーション
身体は時代を映すものだけれど、つい数ヶ月前、こんなエントリーを書いていたのに、ここまで行くのか。まるで人間が運動機能を全て機械に委ねた存在になっているSF映画の世界。それはむしろ植物に後退したようにも見える。ただ、これからの時代のコミュニケーションのレイヤーは、やはり、ここなのだと確信させられた公演だった。
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