『Proof』を観た。

 こんにちは、異羽です。
 久々の感想noteになります!

 演劇仲間であり信頼できる友人の小林桜子が立ち上げたユニット、カヌーは川の上の初回公演を観てきました!
 すごく、すごくね、良かったのです。それについて色々と書いていく。

 コップの水を掛け合うような、会話のやりあい。

 終演後に僕が思ったのはその一言。
 誰もがただ自分の優しさを守りたいだけなのに行動や言動のミステイクを重ねてしまい、本意が向こう側へ行ってしまう。きっと伝わるはずだった気持ちが、言葉のせいで一旦、端に寄せられる。
 でもそれらは全て「しゃーない、よなぁ」って思ってしまうようなことで、どうしようもない事実の羅列になっていく。

 現在11月ですけど、今年一番の観劇をしたなぁと感じました。それぐらい、戯曲も、役者の方々も、演出も、環境も、良かった。

 もうね、ふと思ったことがあるのです。ここまでのことをされると演じる方々の表情とか所作とかそういうとこを恭しく褒めるのは野暮な気がしてくる。絶対そんなことない。褒めたいところは遠慮せず褒めるべきで、それは山ほどあるのだけど、あまりにも当たり前のように世界の構築をやってのけるから、前向きに、言葉を選んでしまう気持ちある。

 あの戯曲に心を乗せるって、何かを狂信的に好きになったことある人しかできないことだと思うんですよ。
 それが人であれ物であれ、何かに対するなりふり構わなさが無いと、綻びになる。
 そういった意味で「この人たちは演じることが好きなのだ、楽しいのだ」と強く感じて。
 物語をただ楽しむ上では関係のない喜びで、今回の公演を丸ごと好きになって劇場を後にしたなぁって思いました。

 数学は構築の美学であり、不可知の美を孕み、解明の快感を求めた亡者が常に存在する莫大な学問だと僕は勝手に思っていて、そんな亡者が三人、振り回される人間が一人。一番思い通りに行かなくて悔しい思いをしているのはきっとクレアなのだけど、それは人間の視点で言えばの話。
 亡者の視点に立ってみれば一番悔しがるべきは、過去、理想の実現を手にしたにも関わらず人間の持つシステムの不調によって手を狂わされたロバートに他ならない。
 他の誰を振り回したって一つの答えに辿り着かねばならない強い思いが研究には必要で、その熱は最期まで冷めていなかったのだろうなと、演技を通して感じたりした。
 キャサリンとハルはその二人に挟まれて、二人の話をしている。
 家族の話と言いながら、自分と相手の話なのですよ。
 式にするとキャサリンは「家族(自分+相手)」だしハルは「相手(自分+家族)」みたいなところで話しているから、答えが重なることはない。
 でもそこから家族を最終的に追いやって、自分と相手のみに一旦、する。幸せかはわからないけど幸福ではあるよなぁ、みたいなところ。

 僕は今、何の話をしているんだ......!?
 我に返ったので読み返してみたらあまりにも怪文書じゃないですか!!!
 でもね、わかってほしいんですけどこうでもしないと多分、自分の話になってしまうんですよね。それぐらい、「自分」が散りばめられた作品でした。

 ので! ちょっともう開き直って自分の話しますか。

 誰もが僕なんですよ。いつだって喉から手が出るほど欲しいのは過去相手に向けた言葉ばかり。
 客席でずっと「わぁそれは地雷です」「あちゃ〜今のはやっちまったな」「それそこでキレ、るよなぁわかるかも」みたいに、ミステイクを敏感に拾っていく自分に驚かされる。
 むしろミステイクが明確な分、じっくり水の掛け合いを観察できるというか。
 本当に言いたいことを包み隠さなくていい時にオブラートを持ち出して、今は引っ込んどいた方がいい時に限って腕を掴んだりするもんだから、もう大変ですよこっちとしては。応援上映があったら「今じゃないだろーーッ!!」が何度もコールされる、みたいな。
 でも、今なんですよね。これのすごいところって、それらのミステイクがその時に起こったからこそ訪れるラストがあるってことで。確かにクレアに関してはもっとこう、やりようがあったじゃんよと思わないこともないけど相手は亡者ですよ。人間としては良く頑張ったし、対話に持ち込もうとしたその手腕は流石亡者の娘であり姉だなと。
 結局は亡者のコミュニケーションがどうあるべきかの話です。そういった意味では全て、あの瞬間に起こるべきことだった。
 「今じゃないだろーーッ!!」に対して「いや、だからこそ今だろーーッ!!」ってレスポンスが響くと思います。応援上映だったら。

 濃密であることがそうやって証明されていく。この作品自体が、進むにつれて積み重ねてきた時間の証明になっていくのだから綺麗。とても美しい。
 いや、ほんと難しいですよこれを一つの作品として美しく仕上げるのって。どれだけの脳が注ぎ込まれたのか。
 先ほど僕はコップの水を例えに出しましたがもう一つ思ったことがあります。

 全員違うカードでババ抜きしてるなぁ。

 これ。ペアが存在しない山札を割り振ってずーっと「あ〜ペアにならなかった」って言ってる。
 誰も手札も減らない。誰も手札も増えない。でも手札を引く、引かれることへの情念だけが強く膨らんでいく。
 ペアじゃないけど欲しい絵柄は今誰が持ってるんだろう、それがわからないから誰に「欲しい」を伝えればいいかわからないし、ババ抜きなのだから「欲しい」に応じてくれるとも限らない。
 そうやって立ち行かない現状に歯噛みしてたら、一人ゲームから降りてしまった。
 キャサリンは置いてかれた手札を見て、そこに自分の手札を潜ませた。ハルはその手札を見て、読み解こうとした。クレアは手札を見なかった。
 三者三様が実はこの作品の主題だったのではないだろうか。三者三様のその中心に一人、居ない人が居る。
 物語が物語たりえるには美しさが必要で、その美しさをロバートが一手に担っていたのかもしれないなぁ。

 あまりにも「自分」があしらわれたこの作品を観た上で、今の僕が人間側だよねぇって納得したりする。
 クレアの「どうにか思い直して欲しい、いいよ、あなたのやりたいようにすればいい。でもね、心配しているこっちの身にもなって」って感情はすごくわかる。わかるし、僕も同じような身の振り方をしてしまうことだってあるので一番自分かもしれない。
 大事なものを大事にしたいだけなんですよ、と言うことで「じゃあ大事なものの大事なものは大事にしてくれないの?」と聞かれてしまう。
 そりゃもちろん全部を大事にしたいけど、それができるのは一番大事なものを大事にできた時であって、一番大事なもの、そのものが大事にされたくなかったら、この考えは破綻してしまう。
 でも大事のやり方って一面的ではないんですよね。クレアの思う大事のやり方が、偶然合わなかっただけのこと。
 わかってはいるんだろうけど、譲れないものがあるクレアがすごく好き。
 最後の最後まで「天才」に諦めずに対話を試みたのだから、やっぱりクレアは人間で、総合的に「話のわからない人」になりかねないところをそこに終着させる手腕が、この公演にはあったのだと僕は思います。
 結果クレアもゲームからは降りたけど、キャサリンとハルは違う絵柄に共通項を見出してなんとかやっていくのだから、手放すのも一種の大事だよなぁ。幸福かはわからないけど幸せではあるよなぁ、といったところ。

 僕は結局、何の話をしているんだ......!?
 この感想を書く直前まではハルがすげーーーー好き! って思っててそれをめっちゃ書こうと思ってたんですけど蓋を開けてみれば一番共感できたのはクレアだったんですね、びっくりですよほんと。こんなことあるんか?
 各々の守りたいものがそれぞれ食い違っていることの歯痒さをずっと感じ続けていた。
 けど当たり前なんすよ。食い違っているなんて書き方するから悪く見えるだけで、人の思考なんて統一されてないんだし違って当然なんです。
 じゃあその違いを受け入れるには? って話で。この作品の四人は、一旦それを端に寄せましたね。最後になってやっと、端に置いたそれをちょっとこちら側に寄せ始めた。
 始まったんですよ、ラストシーンで。
 いい景色だったんですよ、本当に。

 次回公演が楽しみで仕方ないです。
 本当に、観てよかったぁ〜〜〜!!!!
 以上、怪文書でした。

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