暮らしと過ごし
こんにちは、異羽です。
あけましておめでとうございます。皆さんいかがお過ごしですか。僕は友人宅で年越しを迎え、自分の顔写真を使って作られたスイカっぽいゲームをプレイするなどしました。
「こんな大量の自分の顔を見たのは初めてですわ」
って言ったら
「俺なんか開発中これの数十倍見てんだよ」
って言われました。ごめんこれ僕の方が被害者じゃなかった? 面白かったのでいいです。
さてと、2024年になったことで気分も一新したことだし久々に文章をしたためる機会がやってきました。今年こそコンスタントに文章を書いていきたい所存ですね。
この世に生を受けた時点で、生活というものがまず存在するのは皆共通だよね。生活があってその他があって、それらをまるっとひっくるめて人生とするわけだ。今回はこの「生活」を考えてみる。
僕はこれを「生きて活かす」と読んでいる。ひとまず酸素でもって体を動かして、いろんなものを活かすことが生活。最低限これがあれば今日も明日も生活は続いていく。その積み重ねが、暮らしになる。
なんかオーガニック的な響きがあるよね、暮らしって言葉。それに付随して、過ごすって言葉も割と生活感があって僕は好き。
じゃあ「暮らす」と「過ごす」、ひいては「暮らしと過ごし」には何の違いがあるのか。
ごめんだけど今回、僕は一人暮らしを前提に考えていくね。今の僕に一番密接な状態なので。
暮らしに僕は、活動を見た。
起床して、髪を整えて、洗濯機を回して、その間にご飯を作って、などなど。
機能を伴った行動をひっくるめて「暮らし」と呼んでいる。そこがしっかりしていることで、外出と帰宅に意味が生まれてくる。
多分この暮らしをおろそかにすると、家が死ぬ。
よく言うじゃない、人が消えた家はすぐに寂れる、みたいなやつ。それって今まであった「暮らし」が消えるから何かの箍が外れてしまって一直線に右肩下がりでおしまいになっちゃうってことなんじゃないかな。
忙しい時期の僕はま〜見事に暮らしをおろそかにしている。ゴミをそのままにしたり洗濯物を引くほど溜めたり。その時の家ってなんか壁の中にある支柱がちょっと細くなってる感じがするんだよな。
アパートだしそもそも見えないからそんなわけないけど、終わりに一歩近づいたって感じてしまう。疲れてるとそこに居心地の良さを見出してしまう瞬間もあるんだけど、まぁ俯瞰的に見てこれは健やかじゃないよね。
だから僕の理想として、過剰なぐらい家事をしたいんだよ。それによって家がより長く在ってくれるような気がするから。
過ごしに僕は、落ち着きを見た。
ぼーっとしたり、本を読んだり、共に時間を過ごすフェレットのモグと触れ合ったり、極めて楽な体勢でスマホを眺めたり、などなど。
暇を貪る時間をひっくるめて「過ごし」と呼んでいる。そこがしっかりしていることで、明日へのやる気が生まれてくる。
多分この過ごしをおろそかにすると、心が死ぬ。
よく言うじゃない、趣味ってのは心の食事だ、みたいなやつ。それって生活自体にはなんら影響はないけど、家という回復スポットでの回復量を増やす意味があると思うんだよね。
ただこれに関しては二つのおろそかがある。
まず一つは、過ごしの時間を設けられないこと。ふと脳のスイッチを切る、みたいなことをせずずっと何かに追われていると普通に疲れる。
もう一つは、何かから逃げるために過ごすこと。期限に迫られているのをわかっていながらそれを頭から追い出すためにTwitterを巡回したりするあの時間。実際なんも楽しくないし、追い出したと思っても責め立てられていることに変わりはないので普通に疲れる。俯瞰的に見るまでもなく、それは健やかじゃないよね。
だから僕の理想として、晴耕雨読を全うしたいんだよ。それによって心がより潤いを持ってくれる気がするから。
そんな暮らしと過ごしはちゃんと密接に関係している。どちらか一方が抜け落ちるとまともな行動をできないまま無色透明な日々を生きることになる。だから多少頑張ってでも家事をして、本に触れる必要がある。あとついでに意識的に深呼吸とかもしてみることで、生活が完成する。
暮らしをおこたって雑に過ごすことで、家も心もおしまいになっちまう前に、どうにか成長したいと思う、2024年の始まりなのでした。
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