【合縁奇縁】を考える
【合縁奇縁】あいえんきえん
人と人との交わりには、気心の合う合わないがあるが、それもみな縁という不思議な力のはたらきによるものであるということ。
(『豊富な用例でよくわかる 四字熟語辞典 改訂第3版』より抜粋)
こんにちは、異羽です。
ここでは「四字熟語辞典を最後まで読む」を目的とした文章が書かれます。
なんかかた〜い雰囲気だけど、まぁ言わば言葉に対する所感を述べるだけの場なので気を抜いてもらえれば幸いですわね。
???「これでお前とも縁が出来た!」
なんて言葉が聞こえてきそうな四字熟語。せっかくこのnoteを読んでもらってるんですから、これもひとつの縁と考えましょう。
人と出会う、出会わないというのは決定づけられたものなのかしら。
運命的なものにトキメキを感じる僕なので、それにウンとは言いたくない。というか、偶然というものが何かの意思によるものだと考えるのはなんだか窮屈な気がします。
つい最近までとある舞台に出演していたのですが、これこそ縁だなぁ、なんて終わって数日経つ今も思っています。
そこで生まれた繋がりや、より明確になった関係性を僕は今後の生活に役立てていくのです。
「気心の合う合わない」なんて言い方はまどろっこしいので端的にいうと「好き嫌い」についてなのですが、恥ずかしいことに僕は嫌いな人がいっぱいいます。
ただそれ以上に好きな人が超いっぱいいます。これは反作用のようなもので、誰かを嫌いになればなるほど今好きな人をもっと好きになってしまうんですね。
それらをひっくるめて「縁」と呼ぶのであれば、まぁ確かにある人を好きになれるのはある人を嫌えたからだよなぁと思わないでもなく。
とーっても手垢のついた言葉しか出てきません。多分みんな縁については同じように考えている。だからこそ改めて考える価値がありますね。
芸術に興味を持って触れ始めた高校生辺りから思っていることがあります。
この世はデザインに溢れていて、全てが誰かの考慮の上に成り立っている。建物だって、自分だって。デザインはそれ即ち芸術であって、世界は芸術に溢れているということになります。ただその中で「人間関係」だけはデザインできない、唯一芸術ではないものではないかと。
「あの人と出会おう!」とか思っても思う通りに行くわけないし、その逆も然りで。そういった観点からすれば縁を不思議な力と言い切るのも不思議ではありません。
高校生の僕はなかなか的を射たことを考えますね。それだけ人に感謝できていたということですから、まぁ良し。
だからといってこれから先、恭しく「全てに感謝せねば」なんて思うほど僕は自分に従順ではなく、縁に振り回されながらいい感じに生きていこうとするのでしょう。
だって感謝って面と向かって言いにくいものだし。
そうだ、以前とある友人から急に電話口で「お前が友達で良かったよ」と言われたことがありまして。当時は笑って済ませたものの、こうやって書き起こしてみるとその行動に出られた友人は偉大かもしれないな、と思い至りました。
そんな友人と今も演劇を続けているんですから、ちゃんと大事にするってのはのちに結果を伴う行動なのかもしれません。
......まぁ、だからといって僕は友人に同じことを言い返せる勇気はあんまないのですけれど。
幼稚園で出会ってそこから今でもたまに連絡を取る一番長い友達のあいつも、小学校で出会ってその当時一番同じ時間を交わしたものの今ではほとんど連絡を取ってないあいつらも、高校で演劇を通じて出会ってつい今日もLINEしたあいつも、大学で出会ってしまってからなんかずっと友達のあいつも、僕の良縁で。
小学校で出会って良いように僕をいじくり回していたあいつも、中学で出会って僕が不快感を示すことに遠慮をしないことを覚えるきっかけになったあいつも、大学で出会って今では生理的嫌悪感の頂点にいるあいつも、僕の悪縁で。
どれもこれもをひっくるめて、合縁奇縁ということなのでしょうか。
今日もいい感じに感謝なんかせず、生きていこうかな。