【相碁井目】を考える
【相碁井目】あいごせいもく
人にはおのずと力の差があるもので、何事につけ、実力の違いがあるものだということを碁の勝負にたとえていうことば。
(豊富な用例でよくわかる 四字熟語辞典 改訂第3版より引用)
こんにちは、異羽です。
この四字熟語、「相碁」と「井目」でそれぞれの言葉らしいです。前者は実力が同程度の棋士が打つ碁を指し、後者は実力差が明らかな時にハンデを設けて対戦することを指すらしいです。
知ってる用語の知らない言葉っていうのはテンションが上がりますよね。
自分の実力ってものがどんなもんなのかって皆そんなに考えてるものなの? 僕ってばこの世に対しての真摯さに欠ける生き方ばっかしてるから「まだいける!」「こんなもんじゃない!」って思うことが滅多にないのですよ。
相碁井目は、要するに「実力の差ってもんはありますよ」っていう事実を示す言葉なんですよね。縋るにはちょうど良いかもしれない。
中学の頃通っていた塾で将棋を嗜んでいる同級生が居て、彼に少し教えてもらったんです。んで、各駒の動き方をある程度把握した上で対局したら、5分で決着を迎えました。
それなりの自信を常に携えている中学時代を送っていたのですが、その時も例に漏れず「これは才能で勝っちゃってもよいのだね?」と内心思っていたものの、しっかり実力でコテンパンにされました。
桂馬とかいう面白挙動の駒や、飛車とかいう斜に構えた駒が好きすぎてギュンギュン動かしてたら相手の駒が王将の眼前に迫っておりました。
なるほど、思い出してみればこれは明確な実力の差ですよね。すごい、意図せず相碁井目を経験していたのか。
うっかり社会に出てしまうと、思っていたより多様な生き方があるのだと実感することが多いです。まさかと言わざるを得ない方法で生活していたり、真っ当な生き方で幸せを掴んでいたり。なるほど隣の芝が青く見えるのは、芝を青く育てる実力が伴っていないからなんだな。
知った上で真似を慎んでお断りする生き方もあるけど、そんな生き方を貫くのもまた実力の成せる技なんですかね。
ついつい、四字熟語っていうちょっと堅いものを相手にしていることで文章が全て大枠の概念を唱えてしまう傾向がありますね。3つ目にして発見です。
僕には一体どんな実力が秘められているのでしょう。人と相対した時、相手にそれを示すことのできるものを僕はどれだけ持っているのでしょうか。それを探すため、今日も辞典とにらめっこです。
恥も外聞も掻き捨てて言うならば、僕は言語だけは人よりちょっと多く取り入れているつもりだし、感受性のアンテナも人よりちょっと広めな自負がある。ただそれは具体的な実力として自覚できているわけじゃなく、あくまで自負なんですよね。
そもそも言語や感情をどうやって実力にせぇと言うんじゃ。
僕は5年日記というものを20歳の誕生日からやっていて、その中でよく出てくる言葉があります。
「困った」「しょうがない」「頑張るかぁ」
なんとも芯のない三銃士が揃ってしまいました。これが将来どんな姿に変貌しているのか、楽しみです。
演劇をやっていると必ず直面するのが「集客」という側面。芸術ってもんはどこまでいっても鑑賞されて初めて存在が確立されるものですからね。これを無くして演劇は成り立ちません。
実力を非常に分かりやすく言うと、集客率になるんでしょうか。どれだけのお客さんを呼べるのか。その点でいえば僕ってばからきしで、まぁ元々劇作家になることを夢見て演劇の大学に行ったのだから役者として未熟であることは明白なのですけど。
多分僕はこれからも演劇を続けるし、見える実力はちゃんと努力で伸ばしていきたい。
自信が肝要になってくる「見えない実力」に関してはこの辞典を通して自負から進化させられればなと思っています。
人生に相碁井目が付き纏うなら、せっかくだしより強い側でありたい。