ワインと小説 ①
あの古い木造校舎は、もう取り壊されてしまったという。
十五年も前の話だ。
私は長野県にある過疎といってもいいほどの小さな村の小さな小学校に通っていた。同級生と呼べる人も少なく、同じ教室の中に三学年の生徒が合計で十人ほど一緒に授業を受けていた。冬には暖房が入れられていたが、夏場には扇風機とは名ばかりの、その機械の周りに先生も生徒も一緒になって集まり、下敷きや団扇で自分たちを仰ぎながら先生の話を聞いた。
狭い校庭には、桜の木と柿の木、銀杏とがまばらに植えられていて、少ないながらも、それでも季節ごとに、その時々の彩を、教室の窓ガラスから私たちに見せてくれた。
私にとって、その夏は特別に短かった。
夏休みに入る少し前に、担任をしていた女の先生が子供を授かった。普段なら登校日には、先生が宿題を見てくれたり、プールで遊んだり、森の虫を捕りに行ったりするはずだったが、早めの産休に入ったこともあって、代わりの先生が私たちの面倒を見てくれた。
二十代半ばのその先生は、よく日に焼けて、がっしりとした体格と短く切った黒髪を整髪料できっちりと整えて、いつもきまって白いポロシャツを着た先生だった。名前は思い出せないが、そのポロシャツと日焼けした肌と、整髪料の微かな柑橘類の香りだけは今でも忘れることができない。
五年生になったばかりの私には、大人の男性というだけでも気後れしてしまって、夏休みが始まった最初の登校日には結局、一言も話をすることができなかった。
その先生はいつも親切に私たちの宿題を見てくれたし、泳ぐと誰よりも早かった。ゴーグル、なんてものを見たこともなかった田舎者の私たちにそれを一つずつプレゼントしてくれて、みんなでそれをつけて泳ぐのが本当に楽しみだった。
何度目かの登校日が来る頃には、みんな、すっかり先生と仲良くなっていて、夏休みの終わる日が来てしまうことを寂しがり始めていた。学校中の女子、といってもそれは十人にも満たない人数だったが、町のどこで顔を合わせても話題にあがるのは、いつもその先生のことばかりだった。私たちのような女の子にとって、先生は憧れでもあり、お兄さんのようでもあり、近づきがたい異性でもあった。
お盆を過ぎたある登校日のことだった。
登校日だというのにその日は誰も学校に来ていなかった。みんな、親と旅行に行ったり、家で宿題の追い込みをしたり、夏の終わりに向けての様々な準備に追われていた。私はと言えば、先生のお影もあって宿題は終わっていたし、泳ぎもかなり上達していた。その日も先生に会うことはもちろん、プールで泳ぐことを楽しみに学校へと向かった。ところが、着いてみると教室には私一人だけで、先生はいつものようにニコニコと笑顔ではあったが、一人だけのために使うのは難しいからとプールはお預けになってしまった。しばらくは教室で話をしていたが、室内の暑さに飽きると、外へ出てキャッチボールをすることにした。
晴れていた空が急に曇りだしたのは、キャッチボールを始めて十分も経たないときだった。空は見る見るうちに黒い雲に覆われて大粒の雨が降り、雷が鳴り始めた。それまで、夏の陽に晒されていた体は雨粒を受けると一瞬にして冷えて、生き返るように心地よかった。私と先生はあっという間にずぶ濡れになった。雨は勢いを増し、私たちの体からは一気に熱が奪われていくのが分かった。これ以上体を冷やすわけにはいかないと感じた先生が私を促し、教室に駆け込んだが外の雨はそれでもまだ直ぐには止みそうもなかった。
「寒くない?」
先生はそう言いながら、職員室から大きなタオルと自分の鞄を持ってきて、その中からチャコールグレーのTシャツを取り出し手渡してきた。
「風邪をひくといけないから、これを着てきなさい」
私はコクリと頷くと、隣の教室に移って、濡れた自分のシャツを脱ぎ、体を拭いて、先生から渡されたTシャツに袖を通した。かなり大きなそのシャツからは嗅いだことのない洗剤の匂いと、微かに先生の匂いがするような気がした。スカートもかなり濡れていたが、先生のシャツを着た瞬間から、そのことはそれほど気にならなくなっていた。
濡れてしまった自分のシャツを洗面所で絞り、教室に戻ると先生もシャツを脱いでそれを椅子の背にかけていた。プールの時間に見慣れていたはずの先生の裸なのに、私は思わず目をそらしてしまった。
遠くで雷が鳴っていた。雨は小止みになっていた。電気のついていない教室の中で、私と先生は一時(いっとき)黙りこくったままでいた。何か話したほうがいいことは頭では分かっていたけれど、言葉は思うように浮かんでは来なかった。
教室の中に静かに雨の匂いが入り込んできていた。それは注意していなければわからないほどの静けさで、そっと私と先生の間に忍び込んできて、夏の蒸れた教室の中で古い床板(ゆかいた)の匂いと混ざりこんでいった。
遠く南の空がほんの少し晴れはじめ、雲の切れ間から陽が出てきていた。それはあっという間に校庭の上までやってきて、校庭にできた無数の水たまりを映してきらきらと反射していた。
「ほら、見てごらん、綺麗だよ」
先生の声が聞こえたときには、私はもう隣に立っていて校庭を見つめていた。さっきまでの雨がまるで嘘のように空は晴れ渡り、夕焼けが校庭とその水たまりにオレンジの景色を作り出していた。私は先生の顔を見た。先生は嬉しそうにその景色を見つめていた。私もうれしかった。先生のそばに行きたかった。もう少しだけ近くに。それは何でもないことのような気もしたし、とてもいけないことのような気もした。すぐにそのことを諦めた私は代わりに小さな声で「きれい」とだけ言った。先生はちらりと私を見て、微笑むと私のすぐそばの椅子に腰かけた。たぶん、それから三分ほど私たちは夕焼けを見ていた。私にはそれが三十分にも三時間にも思えたけど、思い出そうとするたびにそれは一瞬の出来事として甦った。
「そろそろ帰らなきゃな」
先生はそう言うと、私を門まで送ってくれた。先生と別れてしばらくたってから、借りたTシャツ着たままだと思い出したが、来週返せばいいと軽く考えて、その日はそのまま帰宅した。
次の登校日、私は夏風邪をひいてしまった。母が代わりにシャツは返してくれると言ってくれたが、私は断った。どうしても自分で返したかったし、お礼も言いたかった。あの日だって私は先生とろくに話もしてないのだ。でも、高熱にうなされた私は部屋から一歩も出ることができずに、その日は終わってしまった。
先生は、その日を最後に学校には来なかった。夏休みの間だけ、産休に入った担任の代わりに、ほんのアルバイトとして来ていただけだった。私はシャツを返すことができないまま夏休みを終えてしまった。担任の先生に連絡先を聞こうとしたが、結局はわからずじまいだった。Tシャツは綺麗にたたまれて、私のタンスの中にずっとしまってあった。
大人になり、社会人になって上京し、知人からの連絡で私たちの学校が取り壊されると聞いたとき、私は実家に置いたままのあのTシャツのことを思い出していた。あの雨に打たれた夕方のことを、あの校庭の煌めきのことを、先生の陽に焼けた背中のことを。二人きりの教室の古ぼけた床板の匂いを。
もしもそう呼んでもいいのなら、あれは私にとって「初恋」だったのだ。
きっと。
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