幸運な人と不運な人を分ける、かけがえのないもの。
レイキや占い、フラーレン作りなどを最長3年半ほど続けて、これまでとは異なる形の幸運に出会うことが増えました😊
一方で、ここ数年というのは多くの人にとって激動の年月だったかと思います。
決して幸運とは言えない結果を受け取ることとなり、
「一体どういうつもりなんだ😡」
「どうして私がこんな目に…🥺」
といった出来事があったのではないでしょうか。
同じ土地(国)で同じように生きているはずなのに、どうして違いが生まれるのか。
今回はそうした「幸運な人と不運な人を分ける、たった一つの特徴」についてお話ししていきます😊
この話を読み終える頃には
「よし、やるぞ💪🏻」
「私だってやれる😁」
と、幸運に向かって歩み始めることになりますので、ぜひ最後までお読みください✨
【幸運と不運の定義】
何はともあれ「幸運」「不運」の正体がわからなければ自分が運が良いのかどうかも判断がつきません😵💫
そこでそれぞれの定義を見ていくと
と、相対する意味になっていることがわかります。
では、「幸」も「不」もない『運』とは何でしょうか?
こうして並べてみると、
「どうにもならない巡り合わせに『ヒト』が良し悪しを判断したもの」
これを「幸運」とか「不運」とか読んでいることが見えてきますね👀
[「巡り合わせ」を分析する]
この『巡り合わせ』は何故起きるのでしょうか?
「どうにもならない」とあるように、そこには人の意思や努力が介入しておらず、自然発生的に現れた流れを『巡り合わせ』と呼んでいます。
自分の意思には関係なく満員電車はぎゅうぎゅう詰めで、車を運転すれば渋滞し、歩けば人にぶつかる…。
かと思えば、同僚からお菓子をもらったり、ちょうどタイムセールのタイミングに重なったり、好きな人から連絡が来たり。
それらは「私が意図してそうした結果」ではなく、「偶発的・自然発生的に起きた結果」なので、こうした巡り合わせを『運』と呼ぶことで納得し、受け入れようとしている訳ですね👨🏻🏫
【運はどうにもできない?】
ここまで見てきて「あれ?🤔」と思った方もいるかもしれません。
運とは「その人の意思や努力ではどうしようもない巡り合わせ」ですが、先に挙げた例を始め、自分の身に起きることは本当に自分の意思や努力で何とかならないものだったでしょうか?
というのも、何かしらの出来事が「起きる」までには「それが起きる原因」が必ずあります。
であれば、その原因に対して「自分がどこまで関わっていたか」を分析すれば、その部分に対しては自分の意思や努力で解消できるかもしれません。
例えば交通事故は
①安全不確認
②脇見運転
③動静不注視
④漫然運転
⑤交差点安全進行
と、その多くがヒューマンエラー(人を原因としたもの)によって発生しています😰
自分が事故を起こすのを防ぐのはもちろんのこと、巻き込まれ事故のようなものも
「人はミスをするし、目の前の人がドライバーとして信頼に足るかは自分で確認しなければわからない」
と身構えれば、事前に不穏な動きを察知して事故や渋滞を避けられる可能性が高まります👀
つまり
「やれることはやったけれど、その先のことはもうどうにもならない」
という所まで辿り着いて初めて『運』が浮き彫りになるのです😊
言い換えると、
「『運』が確認できる為には「自分でできることはやった」という証明が先に必要」
という話です😳
そして、このことを一言で表した言葉が「人事を尽くして天命を待つ」です。
先に『人』がやるべきことをやり、その後に『運』が機能する訳ですから、「運はどうにもできない」と諦めた先にあるものは不運(機能『不』全となった『運』)なのです👨🏻🏫
【幸運な人と不運な人を分ける、かけがえのないもの】
ここまでの話から「幸運な人と不運な人を分ける、たった一つの特徴」とは
「目の前の出来事(運)を自分事として考える」
という『自責』です👨🏻🏫
この自責とは「何でもかんでも自分のせいにすればいい」といった暴論ではなく、
「自分の人生を自分の意思や努力で生きる決意」
のことを指します。
目の前の出来事を主体的に選び、決断する。
自分の人生に対して「生きる」責任を持つ。
これが『自責』であり、生きる責任を持つには「自分が今ここに存在できている理由」を追うことになります。
それは『わたし』を取り戻す営みであり、
・自分の肉体があるフィールド
・自分の精神があるワールド
この二つが現在どのようになっているかを理解するところから始まります😮
[幸運な人と不運な人の違いを見る]
では、具体的に「幸運な人と不運な人の違い」を見ていきましょう。
二つの違いが『自責』から生まれていることに注目しながら、以下の表をご覧ください。
【目の前の『運』とどう向き合うか】
こうして対比してみると、ここまでお話しした『自責』が二つを分けていることがわかるかと思います😳
例えば「生きよう」には自分の人生を自分の意思で生きる姿勢が、「楽になりたい」は自分の意思を手放して状況任せにする姿勢が見られます。
「ありがたい」と感じる人は自らの力ではどうにもならない現象、すなわち『運』まで辿り着いた結果、出来事が起きることそのものが「有ることが難しい」のだと知ります。
一方で「当たり前」だと感じる人は、何故それが自分の身に起きるのかを考えることもなく、与えられることに満足できず、与えられないことに不満を覚えるのです😔
目の前の出来事を「私のせい」だと思える部分がある人は、原因追及してその出来事が起こらないように努めます。
「誰かのせい」だと思う人は、自分が関わる部分にも原因があるとは認めず、その場から逃れようとして『同じ構造』で再び不利益を被ることになります。
また、一つのものを「みんなで」分け合える人は分け合った人の人数分の幸せを感じられます。
一つのものを「私だけ」と独占する人は、奪われることを恐れて攻撃的となり、自分の正しさを振りかざして従わせようとします。
自分の知らない出来事に対して「わかりたい」と思える人は、知られることなく不当な扱いをされていたヒト・モノ・コトの『本質』を知り、新たな境地に氣付くことができます。
それに対して「わからない」と目を逸らせば、自分に与えられた都合の良い情報に振り回されて『原因不明』の出来事に延々と悩まされることになります。
そして目の前の困難に対して「なんとかしよう」と自ら行動する人は行動した分の結果を受け取り、「仕方ない」と諦める人は受け取るものがないどころか誰かの用意した『正しさ』に流されて思わぬ結果を受け取ることになるのです😔
[「楽になりたい」と願うようになったら要注意]
不運になる人の特徴には自責の逆、『他責』があり、その中でも「楽になりたい」が不運へ進みやすい傾向が見られます。
これは「生きよう」と対比するとわかりやすく
「生きよう」→人生を主体で生きる
楽しみを楽しみ、苦しみを苦しみ、悲しみを悲しみ、喜びを喜ぶ
「楽になりたい」→人生を他者に預ける
楽しむよりも楽になり、苦しむよりも楽になり、悲しむよりも楽になり、喜ぶよりも楽になる方を選ぶ
という形になります。
「生きよう」には、自分の人生を主体で生きた先に与えられる『運』を天命と受け入れる姿勢があります。
その為、「人事を尽くして天命を待つ」先に与えられた『運』を自分の意思や努力ではどうにもならない体験として受け入れ、人生の糧とします😊
一方で「楽になりたい」には、自分の人生を他者に預けて、ただ自分が楽になるように『運』を責任転嫁する姿勢があります。
自分では何もしないで(あるいは最小限のことをして)結果だけを受け取ろうとする為、『運』に対して感謝できないどころか、自分を楽にしない結果に対して他者に責任を求めるようになります😨
【まとめ】「楽になりたい」願いを叶える社会で
今回は「幸運な人と不運な人を分ける、ただ一つの「決め手」」というテーマで、二つの違いを『自責』という概念から見ていきました😳
人によっては『自責』と聞くと強迫的に感じるかもしれません。望まず「私のせい」にさせられて、いまだに消化しきれずモヤモヤしている方もいるでしょう😶🌫️
その場合の自責とは、他者にとっての『他責』であり、他者の「楽になりたい」願いをあなたが叶えていることになりますから、それはあなたの『自責』ではないのです。
幸運と不運を分ける『自責』とは、あくまで「私を中心にした時」の話だということですね👨🏻🏫
「楽になりたい」人は、何においても楽になる状態を優先するようになっていきます。
そして自分の心身を傷つけることになっても楽を求めるようになった時、それは『快楽』となってこの上ない刺激となるでしょう😶
こうなるとコントロールが効かなくなり、「楽になりたい」願いを叶える為に求めた刺激によって『病』へ陥るのです😔
[本当に「楽になりたい」のかを考えてみよう]
今の社会が「生きよう」とする人よりも「楽になりたい」人を応援するような社会となっていることに、気付いているでしょうか。
「生きる」為に必要な情報よりも「楽になりたい」為に必要な情報によって消費活動が促される現代社会は、注意深く見ていかないと「楽になりたい」方へと誘導されていきます。
それを端的に表した言葉が『生活習慣病』であり、ただ与えられるものを純粋に受け取るだけで病になる可能性が年々高まっているのです😨
ここに加えて、今の社会は『正しさ』を重視するあまり「実際には何が起きているのか」を見失うケースが増えてきました。
その際たる例が『コロナ禍』であり、2020年を境に「科学的根拠」「科学的知見」が中世の免罪符のように扱われるようになり、実態として何ら結果を出していない現実と直面するようになりました😰
このような社会で、あなたは本当に「楽になりたい」のでしょうか?
「楽になりたい」と思わされてはいませんか?
[「生きよう」という意思を固める先に見える、かけがえのないもの]
多くの方が知らず知らずに「楽になりたい」と思わされているように、僕には見えます😔
本当は「生きよう」と思って選んだことが、蓋を開けてみたら「楽になりたい」方へと誘導されていて、しかも後戻りもできない状況にまで追い込まれてしまった方もいるでしょう。
それでも。
「生きよう」という意思は今この瞬間から持つことができます。
これまでどれだけ「楽になりたい」方へ片寄っていたとしても、今この瞬間だけは自分の意思で「どう生きたいか」を選ぶことができるのです😊
もしそれでも「私は選べない」と思うのなら、そこには「この楽な状態から抜け出したくない」という潜在意識(無意識)が強く働いています。
「楽になりたい」以上に自分の求めるものがないと、根っこのところでは思っている訳です。
そしてなぜ「楽になりたい」以上の望みがないかと言うと、そもそも何故自分がこの時代に生まれ、生きているのかがわからないから。
本来それを伝えてくれるであろう親も、祖父母ですらも現代社会を生き抜く中で「生きよう」という意思よりも「楽になりたい」という刺激に満たされて、見失ってしまったから。
もう『当たり前』のように『楽になりたい』と思うようになり。
何かが起きれば『誰かのせい』にして『私だけ』は助かろうとして。
「どうしてそれを選んだの?」と聞かれれば『わからない』と答えて、「わからなくていいの?」と聞かれれば『仕方ない』と諦める。
これが『不運』です。
『生きよう』と思う時、目の前のあらゆるものが自分を生かそうとしていることに気づき、『ありがたい』と感じる。
その中でも悲しみや苦しみが起きるけれど、それが「悲しみ」や「苦しみ」になるのは『私のせい』だと覚悟する。
生きる為には『みんなで』支え合うことが大切で、その為にはみんなのことを『わかりたい』と思えることが欠かせない。
そして、あらゆる出来事に対して『なんとかしよう』と奮い立つ姿がみんなに幸せを与える。
これが『幸運』です。
幸運な人と不運な人を分ける、かけがえのないもの。
それは『自責』の先にある「みんな」、つまり『人への思い』なのです☺️
そして私も、あなたも、みんなも「生きよう」と『幸運』を体験できるようになった時に初めて。
一人ひとりが今日を生きる『生命の営み』を慈しみ、次の世代へと想い紡ぐ「ゆたかさ」に気付けるのです。
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