撮影の制約と誓約
写真が好きな人(撮るのも、見るのも)に読んでもらえたらと思って書いておきます。フィードバック(スキ)があると喜びます。
1. 撮影のジレンマ
私は割と長い間、写真を撮ることについて考え、実際に写真を撮っています。が、どんな写真を撮っているか聞かれると悩みます。スナップ写真なのかなと思うこともありますが、ピッタリした答えでは無いようです。聞く方はそんなに深い意図が無いのだと伝わっているのですが、悩みます。時間に余裕があれば撮った写真を見てもらいます。それが一番早い。そうでなければ、その時々で適当に話します。
でもなぜこんなに悩んでしまうのだろう?
考えたら理由は簡単でした。写真を撮ることの面白さは、撮影そのものであり、どんな写真を撮っているかはその時々で変わるからです。
えっとそう書くと、手段と目的が逆じゃないの?とあべこべな気持ちになります。
2. 撮影の誓約
でもそんなことはありません。意図した結果を生むために撮影するのであって、結果を無視したのでは撮影行為も成立しません。大事なことはそこには明確に順序があることです。
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例えばこの写真は近所のインド料理屋さん。すでにこの場所は別のお店に変わっています。当時私は何度も食べに行っている間に、この写真のオーナー兼料理人と仲良くなり撮影させて貰った一枚です。
仲が良くなったから、たまたまカメラを持っていたから、撮ったわけでは有りません。
私の好きなお店とお店で働いている人を一緒に撮らせてもらうこと。つまり、お店と人の関係を撮るというのが私がやりたかったこと(誓約)でした。
3. 制約と誓約
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要するにどんな状況で、どんなカメラを使って、どうやって撮影するのか考えるのが楽しいし、人の撮影した写真を見るときも、写真を通じて、何を撮りたかったのかを考えるのが写真の楽しさだと思うのです。
ここで今回のタイトルにしている「撮影の制約と誓約」に戻ります。制約とは外部の環境によって行動に制限がかかることであり、誓約とは自らの行動を宣言して縛ることです。「制約と誓約」という言葉は元々は私の好きな漫画で出てくる概念です。漫画はこれらの制限と引き換えに特殊な能力を高めるという設定があるのですが、私は「制限をかけることは表現力を高める」と考えています。あくまで私の定義です。撮影の制約と誓約については具体的には以下です。
撮影の制約とは、「撮影に写真機(カメラ)を使うこと」
撮影の誓約とは、「撮影の方法を予め決めること」
フィルムカメラなのか、デジタルカメラなのか、ズームレンズか単焦点レンズなのか、あるいはスマホを写真機とするなら撮影枚数や重さの制限は無い代わりにレンズの機能/性能が低いかもしれません。複数種類のカメラを持ち運ぶのもあると思います。その場合は写真(結果)に「ブレ」が出るんじゃ無いかなと思います。一枚一枚が別の写真だと考えるなら良いですが、一つのまとまりを「写真」と捉えた時、まとまった写真にならない可能性があります。
撮影方法についての誓約とは、写真を撮るテーマだと考えています。外を歩いてその時の出会いを撮るのもいいし、社会の問題を撮る、素顔の友人を撮るのも良いと思います。ただし、誓約の内容が容易なものほど、表現力が高まりにくいと思います。素顔の友人の写真を2、3枚撮影しても、それは自分のプライベートな友達の写真にしかならない。色々な友人の放課後の写真を撮りまくるだけでなく何か工夫する必要があります。昨年映画化までされた「浅田家」の浅田政志さんは、家族写真を色々なシチュエーションで撮り続けとても高く評価されています。
こういった撮影の制約と誓約など、私の考える「写真の見方」「撮影の考え方」をまとめて行きたいと思います。
私が大好きな写真家を紹介しておきます。スナップ写真のようでいて、計算された構図の写真。ポートレイトでもすごく計算されているようでいて、表情や光の入り方がとても自然な写真。
下記のブレッソンの写真は、写真家と被写体の関係性をとても考えさせられます。
最後まで読んで頂きありがとうございました。