介護の社会化が抱える矛盾─上野千鶴子の記事から考える
「ちなみに、私たち団塊の世代は物わかりのよい老人にはなりません。暮らしを管理されたくない、老人ホームに入りたくない、子どもだましのレクリエーションやおためごかしの作業はやりたくない、他者に自分のことを決めてほしくない、これが私たちです。上の世代のように家族の言いなりにはなりません。」
AERA.dotの記事「上野千鶴子さん「若い世代は親の介護から学ぶことが大事」 自分の老後前に備えるべきこと」におけるこの発言が物議を醸し、ネットの切り抜き文化も相まって毎回のごとく炎上中の京大OB・上野千鶴子女史だが、そもそも彼女はどのような文脈でこれを言ったのか。それを踏まえないと、この発言については何も考えられない。
元記事の論の流れは概ね以下の通りである。まず、団塊の世代により介護保険制度が作られたが、これにより家族介護の負担が軽減し、さらに経験値やスキルなどの介護業界の水準が上がった。そのおかげで、高齢者は独居でも介護保険でサービスを活用することで「在宅死」が可能になりつつある。しかし、介護保険が機能しなくなってきている。その結果、介護の負担は再び家族にのしかかり(再家族化)、自費で介護サービスを追加しなければならなくなる(市場化)。すなわち、介護保険崩壊で割を食うのは子供世代である。また、訪問介護の基本報酬減額などを行う自公政権の動きも、介護保険の危機を加速させている。
ここまでが本筋で、最後の二段落では「若い世代には親の介護から色々学んでほしい。ちなみに、団塊の世代は物分かりのいい世代にはならない。介護される年になっても、決して家族の言いなりにはならない。」との主張が展開されるが、どうも取ってつけたような印象を与える。もう少し詳細な検討が必要そうだ。
彼女の論の流れは「団塊の世代による介護保険制度は残すべき財産である」ということを前提としているが、僕はここが疑わしいと思っている。高齢者の介護を放棄するべきだというわけではなく、介護保険制度が拠って立つ論理に問題があったのではないだろうかと考えている。記事内には「介護保険は団塊世代が介護家族になりかけた時代に作ったもので、要介護当事者である高齢者の要求で作られたものではありません。」とあるが、介護保険は高齢者の我が身可愛さのために作られたのではなく、団塊の世代の考慮によるものであるという点を強調したかったのだろうか。しかし、要介護当事者の要求で作られたものではないことこそが、介護保険の矛盾を引き起こしているのではないだろうか。というのも、介護保険はあくまで<介護責任の免責装置>として機能してきたからだ。どういうことか、順を追って説明する。
団塊以前の世代では、介護の責任を負わされてきたのは主に要介護者の妻や娘─すなわち女性─であった。そして、介護は無給かつ私的空間の内部で行われる「シャドウ・ワーク」として公的空間からは不可視化されてきた。この状況から女性を解放したことはまさしく介護保険の達成であり、フェミニストである上野氏がこの制度を称揚するのも理解できる。しかし重要なのは、介護保険が持続可能かということである。この問いに楽観的な回答を与えるのは厳しい。なぜなら、介護の直接の担い手であるケア労働者も社会保険料も減少の一途を辿っているからである。社会保険料の減少については少子高齢化で大方説明できるが、詳細に触れたいのは前者の問題だ。介護の仕事は、社会的評価が低いままに放置され、労働条件が悪い上に低賃金である。また、上野氏の言葉から受ける印象とは裏腹に、介護保険が適用されるサービスは限定されている。高齢者が「在宅でひとりで」生きていけるためには保険適用外のサービスも必要になるが、それは「やりがい搾取」とも言えるケア労働者の努力によって提供されているというのが実情である。
なぜ、このような状態が放置されてきたのか。勿論国の責任は問われるべきだが、もっと根本的には、介護保険制度目的である「介護の社会化」という概念が「介護責任の免責」という非常に狭い意味でしか捉えられてこなかったことに由来するのではないだろうか。言い換えると、介護保険制度により介護は私的空間から公的空間に解放されたが、ここで「公的空間」が意味していたのは、他ならぬ「少なくとも自分のいる場所ではないどこか」ではなかったか。社会保険料さえ払えば、介護を「公的空間」へ放逐することができる。そのような風潮が続き、介護が徹底して不可視化されてきた結果、「我々の税金がどことも知れぬ老人に搾取されている」という世代間対立を煽るような極端な意見が生まれる土壌を育んだ可能性は否定できない。しかし、社会保険料を払うだけで介護が完了するわけではなく、直接に介護を行っているのは実在するケア労働者である。この自明な事実の認識が希薄化していったことが、ケア労働者を徹底的に冷遇する国の施策に繋がったのではないだろうか(なぜなら、日本は有権者の意識が政策に影響を与える民主主義国家であるからだ)。即ち、介護保険が持続不可能に陥ることはその成り立ちからして自明の帰結であったと考えられる。
ここまでの議論を踏まえて、冒頭で紹介した上野氏の発言を検討しよう。まず「私たち団塊の世代」というのは主語が大きすぎるため、この文は上野氏個人の気持ちを表明したものとして読む。彼女の主張は「上の世代のように家族の言いなりにはなりません。」という一文に集約されているが、ここで想定されている「家族の言いなり」とはおそらく介護保険以前に主流だった在宅でない介護の形、即ち老人ホームへの隔離だろう。そうではなく、彼女自身は在宅で介護保険の恩恵を受けることを望んでいるという意味だろう。しかし、介護の現場が僻地から在宅に変わっただけで、「面倒ごとを自分で引き受けたくない」という人々の気持ちは時代を経てもそこまで変わらなかったのではないだろうか。もし介護保険の制度を維持できない責任の全てが国に帰せられるのならば、彼女の主張は正当かも知れない。しかし、これまで見てきたように大元を辿れば、介護保険が持続不可能なのは他でもなく、その制度が依拠する「介護の社会化」概念の欠陥に由来する。その事実を、「(介護保険制度は)要介護当事者である高齢者の要求で作られたものではありません。」という彼女の言葉自体がはっきりと裏付けている。以上より、上野氏の主張は自己矛盾を孕んでいると言えるが、個人的にはそこまで真剣に受け取る必要もないと考えている。人が矛盾した考えを抱くことは珍しいことでもないし、この発言自体が彼女特有の一種の「カマし」である可能性もある(実際、Xでは見事に炎上しており議論のきっかけを生み出していると言えないこともない)。
大事なのは、現代の介護保険制度とその行き詰まりが、「介護」という人の生の根幹に関わる営みについて我々が何かしらの思い違いをしていることを反映しているのではないか、と考えてみることであろう。最後に、介護問題に詳しい水野博達氏(このnoteを書く上で大いに参考にした)の文章を引用して締めたいと思う。
「介護労働者や家族内介護者が、その苦行・苦役の辛さにもかかわらず、他方では「介護から得られる喜び」を語る。それは、端的に言えば、現代社会では、日頃は、隠されていて、人びと(自分の、家族の、友人・縁者の)の意識からは忘却されている人間の生と死の、生きていることの、人生の意味・価値を思い知らされることの驚きであり、感動であった。言葉を換えて言えば、死に至る道程を共にする高齢者介護を真に「社会化」するということは、市場原理に基づく「介護サービス」を超えて、人間存在の尊厳を日常生活とこの社会に再構築・再獲得していくことであると言える。」
元記事リンク:
https://dot.asahi.com/articles/-/244007?page=1
参考文献:
https://gendainoriron.jp/vol.08/feature/f08.php
https://gendainoriron.jp/vol.27/feature/mizuno.php