あの世に最も近い場所|青森・恐山
夏。遠路はるばる、北へ。
JR大湊線・下北駅で乗り換えたバスに揺られ、ひとり恐るる山を目指した。
恐山という山はない
まさかり型の下北半島、そのど真ん中。一帯の活火山を総称して "恐山" と呼ぶ。
その中央に広がる宇曽利山湖は『蓮華八葉』なる八つの山(剣山、地蔵山、円山、鶏頭山、北国山、屏風山、大尽山、小尽山)に囲まれており、これらは外輪山を形成する。つまり恐山の正体は "カルデラの縁" だ。
少し外側に位置する朝比奈山と釜伏山も恐山の一部である。
カルデラ
火山噴火によって形成した巨大な凹地で、湖となることもある。カルデラ壁と呼ばれる急な崖で囲まれており、地下にはかつての火山体や火砕流堆積物が埋もれている。
宇曽利山湖
カルデラ湖底から硫化水素が噴出する宇曽利山湖の水質は強酸性 [pH=3] だ。曇天の下に在りながら抜群の透明度を誇っているのは、硫酸の湖で生きられるものが限られているからだろう。
この宇曽利山湖にはウグイという魚が棲息しているらしい。
三途の川を渡る
車窓から宇曽利山湖が覗くにつれ、車内に硫黄泉の香りがふわりと漂う。
「硫黄の匂い」と表現されることがあるものの、硫黄は常温で固体のため恐らく匂わない。ならば「硫黄化合物の匂い」とするのが正確だろうが、情緒的には前者を使いたくなる。
中学理科で遭遇する「卵の腐った匂い(腐卵臭)」の正体は硫化水素で、これを水に溶かしたものが硫酸である。
さて静寂の湖を眺め、えも言われぬ香りに気を取られていると、視界の端に赤が映る。宇曽利山湖へと流れ込む "三途の川" に架かる小さな赤い橋だ。
ここではこの赤い橋を渡ることが【三途の川を渡る】にあたる。
渡りきるとあの世へ行けるそうだが、興味本位で踏み込んだ者は途中で引き返せるのだろうか。
霊場・恐山
赤い橋を横目に進むと、湖の畔に佇む恐山菩提寺に辿り着く。
「恐山」は高野山、比叡山と並ぶ屈指の霊場で、あの世に最も近い場所と称されることのある神聖な場所だ。
その所以は口寄せを生業とするイタコの存在にあるのかもしれない。
イタコ
「口寄せ」とは自身の身体を媒介として死者の霊を憑依させ、死者の言葉を代わりに伝えることで、これを行う霊媒師をイタコと言う。いわゆるシャーマンの一種で、現代の日本においては「恐山のイタコ」が有名である。
邪馬台国に君臨していた卑弥呼も、口寄せを担うイタコだったと解釈できるかもしれない。
シャーマンとは神霊や祖先の霊を通じて予言や治病を行う呪術者のことで、その手法は歌やダンス、魔術、占いなど様々な形態をとる。シャーマニズムは日本古来の原始宗教であり、世界各地で現在も信仰されている。
恐山菩提寺
"菩提(ぼだい)" とは悟り、"菩提寺" は先祖代々の位牌を納めてある寺のことである。其処此処で華を添えるカラフルなかざぐるまは、この地において象徴的な存在感を纏っている。
かざぐるまを供えるのは水子供養の寺でもあるかららしく、シュルシュルと軋みながらひたすら回り続けるポップな姿がより一層もの悲しい。あの赤い橋の存在も相まって、賽の河原の石積みエピソードが呼び覚まされる。
親よりも先に逝くことは大罪とされ、幼くして亡くなった子供たちは三途の川の畔で石を積まされる。けれど見回る鬼に「こんな粗末な塔ではいけない、やり直せ」とせっかく積んだ石を叩き崩されてしまう。
死してなお、苦行を強いられ、決して川を渡らせてはもらえない。
いつまでもいつまでも。その業は繰り返される。
そんな幼い子供たちの冥福を祈り、少しでも安らかに、そして悟りを拓けるようという祈りもまた、この地を「あの世に最も近い場所」たらしめているかもしれない。
チラホラと歩く人たちもみな気配を潜め、シュルシュルと滞りなく回り続けるかざぐるまの音が際立っている。この地では強すぎず弱すぎずといった風がしきりに吹いており、お線香だと祈りがすぐに消えてしまうのだろう。
ならば、かざぐるまほど頼もしい存在は他にない。
祈りが形を成した場所
航空写真でこの恐山界隈を眺めると、火山群に囲まれた宇曽利山湖がハート型を成していることがよく分かる。湖の北側に位置する菩提寺は、ちょうどハート型のくぼみに収まっている。
周りは緑、けれど恐山菩提寺の周辺だけは白く荒涼たる有り様だ。
この日の「あの世に最も近い場所」は、退廃的な地上とヴェールの隙間から覗くハート型、に見えなくもない空が近かった。
Rewrite 2024.10.21|恐山 ル・ヴォワールに関する記述を移設