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【音楽エッセイ】Suedeの色気に溺れる

前のエッセイに書いた通り、僕はマイケル・ジャクソンで音楽に目覚めた。そこからは、マイケルと一緒に活動したスラッシュやエディ・ヴァン・ヘイレンといったギタリストに惹かれて、特にアメリカン・ハードロックを聴くようになった。ガンズやヴァン・ヘイレンに加えて、エアロスミス、ボンジョヴィ、モトリー・クルーなどが当時好きだったバンドだ。そこから、しばらくすると今度はカート・コバーンが好きになって、グランジの陰鬱な価値観にどっぷりハマっていった。
いずれにせよ、自分がロックを聴き始めた頃はLAメタルやグランジ、後はリンキン・パークみたいなラップメタルとか、とにかくアメリカのものを良く聴いていたのである。

しかし、そういったアメリカ中心主義(別にあえてアメリカのロックばっか聴いてた訳ではない)はいつの間にか崩れて、ある時点からはどちらかというとイギリスのバンドを好んで聴くようになった。
このコペルニクス的転回(という程大層なものでもないが)の、大きな理由となったバンドの一つが自分の中ではSuedeだったのである。

自分の中のブリット・ポップ革命はSuedeがきっかけだった

Suedeのメンバー自身は、あまりにもナショナリスティックな価値観を内面化しすぎた「ブリット・ポップ」という用語を敬遠していたけど、僕自身の中で本格的にイギリスのロックというものの固有性を意識するきっかけとなったのは、やっぱりSuedeだった。

Suedeは、ヴォーカルのブレット・アンダーソン、ベースのマット・オズマン、ギタリストのバーナード・バトラー、ドラムのサイモン・ギルバートからなる4人組のバンドとして1992年にデビュー。その後、バーナード・バトラーが脱退し、後任のギタリストとしてリチャード・オークスとキーボードのニール・コドリングが加入し現在のラインナップとなった。

ブリット・ポップを、イギリスの過去のロックを90年代に復興させたムーブメントとして捉えるならば、Suedeが復興させたのはデヴィッド・ボウイやザ・スミスなどがロックに持ち込んだ退廃的かつ耽美的な世界観であり、端的に言うとグラム・ロックの美学だ。
Suedeの初期のテレビ出演の映像などを観ると、彼らがどういう世界観を持っていたかということが一発で分かる。胸をはだけさせて、クネクネと踊るブレット・アンダーソンの姿は、グランジが世界を席巻していた当時のロックの世界では極めて衝撃的だっただろう。

僕がSuedeのパフォーマンスを観て感じて魅力的に感じたのは、良い意味での「人工性」だった。例えば、僕がそれまで90年代のロックの代表として聴いていたグランジは、着飾るどころかボロボロの普段着みたいな格好のまま出てきて、心から自分の苦しみや痛みなどを叫ぶような音楽で、言ってみればオーセンティシティの美学があったのである。
しかし、Suedeのパフォーマンスや音楽はむしろ演劇的であり、オーセンティックな価値観とは相対するような人工性を感じる。また、他のイギリスのバンドにも言えることだが、そういった人工性を分かっていて演じているような、批評性や遊び心のようなものまで感じられるのだ。こういったところに、惹かれてだんだんとグランジからブリット・ポップへと僕の関心は移っていったのである

ブレット・アンダーソンの歌声

そんな風に衝撃を感じたSuedeなのだが、僕が特にこのバンドで好きなのは、ブレット・アンダーソンの歌声だ。まさにデヴィッド・ボウイやマーク・ボランやモリッシーを受け継いだような、色気のある歌声。こういう人たちの歌を聴いてるとイギリス訛りの英語の発音って、グラム・ロックのセクシーな歌い方と凄く相性が良いんじゃないかと思う。

そんな、ブレット・アンダーソンの歌声で特に好きな楽曲はデビュー・シングルでもあるThe Drownersだ。特にサビのメロディが大好きで、"taking me over"というフレーズの発音にとても色気を感じる。

Suedeは、BlurやOasisなど他のブリット・ポップ勢と比べると知名度が下がるが、一度ハマると抜け出せない中毒性があると思う。僕も、まさにそんなSuedeの沼にハマって溺れてしまった"Drowner"の1人だ。

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