『違う、そうじゃない』だから、面倒でもあり楽しくもあり~書く理由~
私は政治家のように自分の意見を堂々と述べることに躊躇感がある。
そしてあまり好きではない。
出馬しようなんて思ったことは一度もないので、だったらいいじゃないって話だけれど。
政治家のたとえはちょっと大げさだが、会議などでも意見を求められるのが苦手。
意見があれば挙手するから放っておいてほしい。
なのに「何か言いたそうだから」とか因縁をつけて指されたりする。
もっと身近なところで家族や友人でも「あなたはどう思う?」と考えを訊かれて、少し的を外したことを言って「逃げている」と、ひんしゅくを買うことがある。
ふざけているわけではないし、あまのじゃくのつもりもないのだけれど。
いやもちろん、
買って来てくれたお土産のクッキーの味を訊かれるくらいはペラペラ答えるし、日常会話のコミュニケーションも双方向の流れをせき止めたりこじらせたりするようなことはない。
理屈を並べるのが好きではないというか、言葉を重ねて「何故そうなのか」を説明するのが面倒な気がしてしまう。
「こう言うと、こう解釈されるかもしれない」そしたら、その齟齬を埋めるためにさらに何かいうほど、自分の本意からもっと逸れるんじゃないかとか、そんなことを思ったりして挙句、『何も言わない』『言葉を足さない』を選んでしまう。
それでも何か言わなければいけない場面では、適当なところに当たりをつけて凌ぐ。いや、凌ぐといえば聞こえはいいが、『逃げグセ』ということなのかもしれない。
『それって、思考停止でしょ』と言われるなら甘んじて受け入れるしかないのだけれど、何も考えていないわけじゃないの。
だから。
『言いたくない』って、あるんだけどなあ…
そんな逃げグセのせいなのかどうなのかわからないが、私は読書感想文も苦手だ。
学校の先生に「読書感想文というのは、お話の筋を書くことではありませんよ」とか「どこがどう面白かったのかちゃんと文章にしましょう」などと指摘されて、「(ここは)笑った」「(あそこが)悲しかった」などと羅列したら、今度は「面白かった、面白くなかった、笑った、悲しかった、なぜそう感じたのか、その理由を書きましょう」と先生はさらにハードルを上げる。
見逃してくれよ…と思っていた。
書くこと自体はキライではなかったけれど、思いを言葉にすると『割り切れない割り算』のような違和感が残る。
思いや感情を「10」とすると、言葉は10÷3の除数「3」で。
小数点以下0.333333が捕まえられない、そういう感覚が子供の頃からあった。
もしくは水に浮かんでいるヨーヨーを手繰り寄せようとするほど、向こうに行ってしまうようなもどかしさというか。
言葉⁉ 何なんだこれは!
君たちはこんなツールで互いの疎通を図っているのか⁉
初めて地球を体験する宇宙人なら理解してくれるのかもしれない。
そうして言葉に換えた違和感満載のアウトプットを他人に読まれるのもイヤだった。
ピンボケの失敗写真しか撮れてないのに「私にはこう見えました」って言ってるみたいで。
そういえば本を読むことも「好き」の意味が私は違っていたかもしれない。
小学3年生までは毎日図書館に通い、本を借りまくっていたので、キライではないつもりだけれど、周りの読書好きの友達を見ると、『手あたり次第』『片っ端から』何でも喜んで読んでいるように見えた。
文字通り、読書好きは「読む行為が好き」なんだろうと思えた。それを読書好きというなら、やはり自分はちょっと違うような気がした。
読むことが好きというより、その本の中身や物語が「知りたい」から文字を追っていただけなのかもしれない。だから興味の湧かない本を読むのは苦痛だったんじゃないだろうか。
「面白いから」と勧められても直観的に「ムリ」と思ってしまうと、天の岩戸に隠れる神さま級にシャットアウトしてしまう。
なのに、宿題の感想文は「好きな本なら何でもいい」ではなく、いつも推薦図書とかいうものだった。
その表紙からして私の興味をまったくそそることなく、持ち帰ったまま忘れ去り、提出期限ギリギリになってようやく「あの本はどこにやったっけ?」と探す。
小学5年生のとき、明日提出という感想文の宿題に渋々取り掛かり、課題図書のページをめくり、しばらく文字を追う。
いつものごとく、私の脳内は締め切ったままなので、ぜんぜん頭に入ってこない。
何度も同じ下りを行ったり来たりする。
しかし、どうにかカタチにしなければいけないという焦りに追い立てられ、あちこち適当にページをめくり続けていて、本文の後の方に読んでいないと書けないようなことが綴られていることに気付く。
『あとがき』とか『解説』などと記される情報の宝庫だった。
さらに、その書籍と一緒に配られた「推薦図書一覧」のリーフレットを見返すと簡略的なストーリーが紹介されている。
あとがきとリーフレットを書き写せば『イケる』んじゃないかというひらめきのままに原稿用紙に文字を並べてみた。
文体とか遣われている単語などが自分の身の丈ではないことも一目なので難しい表現やフレーズを「子供らしく」書き直してもみる。
400字詰めの原稿用紙1枚以上というのがルールだったから、なるべく話し言葉(「」)を引用して行を稼いだ。
そんなふうにして中身を読みもしないで書き上げた私の感想文に友達は目を丸くして驚いたり、賛辞をくれた。
ちなみに私は特に成績が良いということはなく、人並みだった。平凡な子供でも切羽詰まるとソリューションを見出すことがある。
小学校を卒業して中学へ入ってもまだ感想文の宿題は続いた。
私は自ら獲得したソリューションによって中学校の三年間も乗り切った。
そうして凌ぎ続けて歳を経るにつれ、言葉の数だけ増えて行き、感性という「角」はどんどん削られて行った。
そうして当たり障りのない大人に私はなった。
傾斜に合わせてコロコロ転がりやすくもなった。
もしかして私は10÷3の余り1を切り捨ててしまったのだろうか?
そんな私がnoteをやっている。
そんな私がnoteを続けている。
私は何が書きたいんだろうと思いながら、
色んな方の記事を読ませてもらいながら。
『10÷3の余り1を言葉で追いかけてみるツアー』
これを楽しむために私たちはこの星にやって来た。