見出し画像

現のサンサーラ

かすかな揺らぎにふと薄目を開けると、私は暗い海中にいた。
ツートンの胴体をしならせ、どこまでも続く碧色あおみどりの粒子のうねりに漂う。

ああ、また戻ってる…

これは夢ではない。けれど、うつつと言い切れるすべがない。

時折、忘れた頃に蘇るこの現象は遠の昔に慣れ切っていて、誰にでも当たり前にあることと思っていたけれど、どうなのだろう。夢の記憶と同じで、覚えているか忘れてしまうかの違いはあるだろうけど。

このまま眠りに引き戻されて、次に陽射しで目覚めれば、いつもの部屋のいつものベッドの上にいることも、水の粒子を掴むヒレがブランケットを手繰り寄せる5本の指に戻っていることもわかっている。




私がニンゲンに興味を持ってしまったのは、あの日初めて見た『目』のせい。

厳しい冬が過ぎ、海水が少し温んで来たある日の午後。
久しぶりの大漁にありつけて、満たされた気分で陽射しを浴びて波にたゆたっていると、仲間の興奮した声がした。

「ニンゲンだー、ニンゲンがいるぞ!」

まだ一度もニンゲンという生き物を見たことがなかったので、慌てて仲間のところへ寄って行き、同じように自分も海面へ頭を突き出した。

すぐ近くに巨大な影。それはニンゲンの乗り物で『船』と呼ばれる鉄の固まりだった。

自分の体より大きい、動くものを見たことがなかったので、しばし唖然として釘付けになった。

船は静かに波間に揺れているだけで、こちらへ向かって来る気配はなかった。

「オレはもう少し近づいてみるぜ」

仲間で一番好奇心の強い『ニギ』が、船体の下へ潜ったり、ギリギリをかすめて泳いで見せる。

「ほら、へっちゃらだからお前も来いよ!」

ニギに合図を送られて、もう少し近くで見てみようと、船の引き波にあおられない程度まで近づいた。そしてまた頭を海面へそっと突き出して見上げると、船の上から私をまっすぐ見下ろす一つの視線に気づいた。

それが、初めて見たニンゲンだった。

暗い目をしていた。

そこら中泳ぎ回って色んな海を見て来たけれど、その目と似た色は知らない。私たちに捕食される寸前の生き物だってあんな色の目は見たことがない。

それ以来、私の脳裏にはあの目が焼き付いてしまった。




今世、魚商を営む男を親として選んだのは、細かな条件とかをのぞけば、決め手は私が何より好んで食していたのが鱈だったから。

心根は優しいけれど、生き方が不器用というのか、「親」としての質は今イチかなとためらわれたが、目先の利益より鮮度の良い魚にこだわる気概を見込んだ。

私はとても寒がりだったが、鱈が食べたい一心で震えながら、仲間と北の海を中心に泳ぎ回っていた。
凍てつくような水をかき分けて探し回るのが、自分の性に合っていないと思っていた。
だから、この男を父に選べば現世は苦労しなくても活きのいい鱈にありつけると思った。

ところが父は、ここ現世をさっさとリタイアして還ってしまった。

自分が処世を身につけることに精一杯で、父の目も、あの日見たニンゲンと同じ色をしていることに気づいたのは大人になって随分あとのことだった。

振り向きもせず、光の中へ消えて行く父の背中を呆然と見送りながら、私もここではない、どこかへ行こうと思った。

生家には祖父の手作りの小さな築山があり、自慢の盆栽がずらりと並べられていた。

ここでの自分はそれらと同じものらしいと、幼い頃から薄々勘づいてはいたが、だからといって抗うこともしなかった。気に入っていたわけでもなく、馴染んでもいなかった。ただ、人間はそういうものと思い込んでいた。これが鱈を喰える代償なのだと。

家は大きな梁で造られた、古いけれど頑丈でとにかく広い屋敷だったが、いくら深く吸い込んでも酸素が取り込めないような、そんな空間だった。

年頃になって、息苦しい生家から抜け出してはみたものの、行く場所行く場所、どこも似たようなものだった。
それでも、くたくたになって帰る狭い部屋のベッドに横たわる独りの方が気楽でいいように思えた。

ああ、今日も眠りにありつける…

空腹のまま、まどろみを漂う。
そういえば、あちこちの海をさまよっていたあの頃はいつも空腹だったけれど、辛いと思ったことはなかった。
というか、この感情がニンゲンの証なのかもしれない。生きることへの執着を知ったし、いとおしむような懐かしい記憶も取り戻した。それは言葉にすると「帰りたい」という陳腐な表現になってしまうけれど。

思い返せば、10才の夏、校外学習で水族館に行ったことがきっかけ。初めて見たオルカショー。そこでの再会が「帰りたい」を呼び起こした。

水しぶきをあげて狭いプールを窮屈そうに泳ぎ回る黒く美しい巨体。
その中の一頭を見つけて私は彼に釘付けになった。


ニギ!ニギだよね⁉

こんなところで何をしてるの?
どうしてここにいるの?


こちらの呼びかけに、彼はちらりとこちらを一瞥すると言った。

なんのはなしですか。

いや、はぐらかすなよ。
久方ぶりの再会がこんなところだなんて。

激しく動揺している私に億すことなく、ニギはしぶきを跳ね上げて私の前を泳ぎ去った。

ずぶ濡れになった私を振り返り、彼はニヤリとした。

そうして窮屈な水槽をぐるりとひと回りしてトレーナーの元へ戻ると、バケツから取り出された餌をパクリと呑み込んだ。

ここなら苦労しないで好物にありつけるのかい?

私の問いかけに、ニギはもう答えなかった。

その巨体が起こす怒涛で湧き上がる歓声も、彼にはどうでもよさそうだった。



ニギとの再会から、彼らと過ごした厳しいけれど懐かしい海が思い出された。もう一度見たい(帰りたい)と、ずっと思っていた。

だから札幌へ出張が決まったとき、このタイミングを逃してはいけない気がして、有休と公休を含めて数日間の余暇を取った。

行き先は何となく浮かんでいたが、地名や経路を地図で確かめて、知床まで足を延ばすことにした。

旅行ガイドもあれこれ調べて、私は羅臼港から出港する観光船に乗ってみることにした。
怪獣のカタチをした岩を見るツアーだ。
異形の岩が見たいわけではなく、そこが自分の行きたかった海だと直感したからだ。
GW後のその時期なら、もしかするとクジラやイルカに出会えるという。

持っている中で一番厚手のコートとインナーを重ね着して来たけれど、それでも船上に吹く風は生地の縫い目からも忍び込んで来てとても冷たかった。

連休後という時期もあり、ツアーは満員ではなかったものの、それでもスマホで海や空を背景に撮る家族や恋人同士と思われる男女で船内は賑わっていた。

そんな彼らを横目にしながら、私は海原の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
追憶の「碧い」故郷が、懐かしい匂いとともに体中に染みわたって行くと、冷たい頬にこの海と同じ成分の生温い雫が伝った。

しかし、慣れない船の揺れのせいでみぞおちの辺りの不快感に襲われ、いったん船内へ戻ろうときびすを返した。
と、ほぼ同時に船のスピーカーから船長の少し早口のアナウンスが鳴り響いた。

「たった今、漁師からシャチがいるとの情報が入りましたので、急きょそちらへ向かいます」

ガチャリと無線が切れる音の後、エンジン音が高くうなりを上げ、船はぐんぐんスピードを増した。20分ほど走ったところで再び船長の興奮した声が船内に響く。

「左手100m前方にシャチの群れ!」

船上の全員が一斉に同じ方向を見る。

「いた!」

誰かが声を上げて指を差す海面に、ちらちらと黒く光る背びれが見えた。

それらは次々と浮かんでは沈み、エンジンが止められた船体へゆっくり近づいて来る。

「たくさんいるね!」
「すごいね!10頭くらいいるのかな」

興奮した子供の声に、父親らしき男も声を弾ませて返す。
群れはどうやら船の周りを取り囲んだらしく、船上のあちらこちらで感嘆の声が上がる。

彼らの興奮につられて私も船内から船尾側へ出た。
手すりの外側へ首を伸ばし海面を見下ろすと、ちょうど頭をこちら側へ突き出した一頭と視線が合って胸の鼓動が大きく跳ねた。

こちらを見上げているその澄んだ目は紛れもなく私。


私は息を呑んだまま、自分を見下ろして呟いた。

オルカだけに『知るか』
…なんつって。


次に目覚めたら、私はどちらに戻っているのだろう。






いいなと思ったら応援しよう!