初めての「死」との向き合い方
急なことだが、本日午後おじいちゃんが天国に旅立たれた。
よもぎはオーストラリアから祈ってくれ。帰らなくていい。
それは、忘れもしない2月17日午後5時頃のことでした。
その日の勤務を終え、何をするでもなくチーズを片手にNetflixを観ていた時でした。ラインの通知を一文読んで言葉を失い、その場で時が止まったような感覚に襲われました。そして、何か取り返しのつかない感情に襲われました。
うそだうそだうそだ
信じられなくて、誰かに違うといってほしくて、誰も周りに助けを求められる人なんていないのに。ただただ、信じられないという自分がいました。
おじいちゃんは、わたしの育ての親のような存在でした。共働きで夜は遅く帰ってくる両親に代わり、身の回りの世話から勉強、習い事の送り迎えなど毎日してくれていました。畑を耕して、まるで農家のような立派な作物を作っては、ご近所さんに配って回る。不器用だけど、とても優しいおじいちゃんでした。
わたしにとっては、人生で一番の喪失感を感じ、数日間は涙が止まらない毎日を過ごしました。私がもっとそばにいてあげられたら、そればかりが頭に浮かびました。
しかし、わたしは一時帰国はしませんでした。
出発前におじいちゃんと約束をしていたのです。
「俺が死んだとしても、お前は帰ってこんでもええからな。お前はオーストラリアで踏ん張って、帰ってこい」
私たちは電話越しで珍しく一時間近く話しながら、わたしはスーパーの中にいたのですが涙を流して鼻水もたらしながら返事をしていました。
ほんとは傍にいたい。そう言ってもよかったけど、それを言ってしまったらわたしはきっと気持ちが揺らいでしまうと思い、必死に涙声を堪えて返事をしてました。
「どうも、よもぎはウエッティでいけん笑 もっとドライにならんと」
「もっと強くなるね。…あ、じいちゃん、あたしってどんな孫??」
普段、昭和の頑固おじいちゃんの典型例のようなじいちゃんはめったに人を口に出して褒めることはありませんでした。最後にどうしてもわたしはききたいと思ってこの質問を口にしたのです。
「どうって………自慢の孫だよ」
電話越しにこの言葉を聞いて、ありがとうとまた涙が溢れてしまいました。いつまでたっても、泣き虫でごめん。じいちゃん。でも、ほんとうにありがとう。わたしはこの時、この先どんなことがあっても生きていけると思いました。
2月17日当日に話を戻します。
2日間、お仕事をお休みする期間をもらいその間はひたすらに自然の中で、じっと、ただじっと空を見つめたり、風を感じていました。ベンチに寝ころび、空を見ながら今までの思い出を振り返っていました。
オーストラリアはちょうど夏の季節で、色鮮やかな花の姿がぽつぽつと見えました。そういえば、おじいちゃんは畑の中で死にたいと話すくらい自然が大好きだったな。畑にいるとご飯を食べるのも忘れて、一日12時間くらいはずっと作業してたよな。わたしが一緒によくお手伝いをしていると、おまえはほんとに作業姿も俺に似ていると嬉しそうだったな。
その時、思い出の中にしっかりと生きる故人の姿に気づいたのです。もう目には見えないし、話すことも会うこともできないけど、記憶の中では私がいなくならない限り生き続けます。
故人の生き方の影響を私たちは受けて、今を生きています。物体としてはいないけど、思いは生き続ける。私にとってこれほど嬉しいことはありませんでした。
「死」を間近に感じて思ったのは、生きて、誰かにその思いを伝えようと思いました。
悲しいし、ショックで何も手につかない状態も、この先どうしたらいいんだという喪失感も、すべてをどん底の暗闇で泣き明かした後は、それでも気を振り絞って前に進むしかないんだと思います。
今も書いていたら泣いてしまうほど、もろいところはありますが、今回の渡航でもやるべきことはしっかりとやり抜いて、帰国します。
みててね、おじいちゃん🌸