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独り言 「道」の付くものと産業化
「道」のつくものを産業化しようとすると やっぱり弊害が生まれるのかな?
「道」には技術の他に哲学がくっ付いているから。
今はお膝元の国内でもそこが怪しい時代。
国内外での拡大は布教の為なのか。
誘致されたからなのか。
特に急激なグローバル化へ対応する為のプロセスでは技術が先で哲学は形ばかりで後付けになっているのではないのだろうか。
今年はオリンピックを観てて特に考えさせられたな。
あの競技態度は「道」から外れているとか
審判の基準が本来からずれているとか
あれは「JUDO」であって「柔道」ではないとか
色々議論されたけど競技者とか審判員とか
もちろん個人の資質もあるのだろうが、
組織拡大の為のプロセスとか、
組織のメンテナンスとか
他にもっと大きな原因があるように感じた。
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しかしこれは武道に限った話ではない。
これは仮説でしかないけど、元々「道」の世界も技術が先にあり哲学の方は後付されたものなのかもしれない。
同時に発生したものではないのではないだろうか。
でももしそうだったとしても技術に精神性を付け加え調和させることで、
より上を目指そうとする形而上的ところは、
私達日本人の持ってる優れた点なのかもしれない。
とても素晴らしいことだと思う。
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しかしながら組織の存続すら危ぶまれるネガティブ時代せいなのか
精神性の綻びを目にすることがある。
もちろん日々自分の土俵の中では体裁を整えることは、
伝統ルーティンに則り上手くやっているのだろうが、
時折土俵の外で見させられるその佇まいに
大切な何かが抜け落ちているのではないかと心配になることがある。
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スタイリングだけを切り取ってそれをデザインとは言わない。デザインの良し悪しは7・8割方スタイリング作業が始まる前の段階で決まる。スタイリングはあくまでもデザインという行為の中の一部の作業なのである。デザインにはアート的要素も含まれるが、アートが一番ではない!と習ったものだ。
残念ながら今は内容はどうあれ体裁を整えるだけで成功しちゃったりする時代。(恐らく一時的な成功なのであろうが)
それはまるで看板建築のようなものだ。看板建築はかつて取り急ぎ復興の為に生まれたもので、表側から見られることだけを想定したものであっで、一般的に裏側から見られることを想定したつくりではない。
この綻びはその人間性の問題というよりは組織の運営に構造的な問題がある様に思える。
今は世界中が先を急ぐ生き残りをかけた近視眼的な時代。
プロダクトデザインの世界も同じで、メーカーのオーナーからデザイナーへのリクエストは、なりふり構わす「すぐに売れるモノをデザインしてくれ」となる傾向にある。企画デザインの中にある消費者の事情の比率がどんどん低下する。
「三人寄ればグループエゴが出る」とかつて工業デザイナー秋岡芳夫氏が警鐘を鳴らしたが、辛い時代はそういったことが顕著に表れる。
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さて、ここで誤解を招かないよう言っておきたい。
上で述べたことは決して全てではない!
精神性をもきちっと守りその実践とその伝承をなさっている尊敬できる素晴らしい方々が今も沢山おられるし、僕の周りにも両道を貫く素晴らしい方々が大勢いらっしゃる。そして「道」の世界を越えてスポーツの世界でも精神性を極めている方の多さには日本人としてとても誇りに思う。
時の人、MLBの大谷翔平選手にしても類まれな技術スキルにとどまらない。
彼の精神態度は見ていてとても気持ち良いしほんと尊敬に値する。
本来「道」とはそれをそれを目指すのが自然な姿なのだ。
でも油断していると心に垢がつくことがある。
大学時代 僕は体育会に所属していて、初めは教えに背いて勝つことばかり考えて日々を過ごしたけど、やがて後から哲学がちゃんとついてきた。
「道」という字はついてなかったけど教えは
「拳禅一如」であり「力愛不二」である。
あっ!と思われた方は同門ですかね。
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できている人,できていない人の差は結局のところ、たまたま入門した先の環境の質やその人の資質次第ということになるのだろうか。
でもそれでは「道」とは言わない。
本来であれば何もわからず丸裸の状態で入門しても、技術の習得と共にやがて人間としての佇まいが自然に整ってくるのが「道」だと思う。
最初から技術のみを目指す人はそれでも良いのかもしれない。
また、楽しい!可笑しい!だけならサークルでよくて「道」はいらない。
しかし両道を求めてスタートしている人は精神性が表層だけのものだったと気づいてしまうと、やがてそこから離れる。何故なら道を究めようとして、目先の利便性よりも相当の手間を覚悟して入門しているからだ。でも今はそこのところが何となく曖昧になってしまった時代。なかなか気付けないのである。
経済学で言うと入門者(素人)と教える側(玄人)の持つ情報量の間に極端すぎる不均衡が存在する世界なのである。
結果、氷山に例えると水面に出ている部分の形式知(技術)についてはある程度伝わるが、水面下に潜む大きくて大切な暗黙知(哲学)はあまり伝承されない。暗黙知は、形式知の様に言語化や図形化し難いものだ。したがって都合よく急ぐことが出来ない。時間がかかる作業なのである。
「消費者の厳しい眼差しはマーケットに緊張感を作り出し、その緊張感は品質やサービスの質向上につながる」は僕らの生活デザイン運動でいつも言っていることだが、師弟関係の世界となると難しいことなのかもしれない。なので気づいてしまった人は何も言わずに去る。そして組織の根本的なイノベーションが遅れる。
経済学や経営学は決して悪者ではないが完璧ではない。
人の持つ合理性の上に成り立っている学問で、
人の倫理や善悪を説く学問じゃない。
だからそこにはいつもトラップが潜んでいる。
それぞれのご都合がマーケットでぶつかり合うわけだから
それは当たり前のことだ。
最新のテクニックを身に付けて
自分の優位性を高めようとする学問なのである。
したがってそれだけでは
大切な何かを置き忘れることがあるのである。
繰り返されるうちにやがてマーケットはそれを見抜き
それから興味を失い参加人口を減少化させる。
経済学でいうとこれを「薄い市場」という。
正に拡大を目指す組織としては本末転倒なのである。
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「道」のつくものは「楽しく」もあって良いのだが、
それなりに「覚悟」も必要だ。
しかし「覚悟」を最初に掲げると入門のハードルが上がる。
集客にはキャッチ―な「にんじん」が先という
甘く危険な力学が多かれ少なかれ働いている。
先程のスタイリングの話につながる。
入り口としての手段に使う「覚悟」や「楽しさ」はその時代に応じて上手く使い分ければ良い話だか、大切なのはそのプロモーションの意図が「入門者の為なのか?」「組織の為なのか?」「自分たちの糧の為なのか?」の分量比率がどうあるかというところにあると思う。
生物学の切り口で経営学を考える方法論では「後続者が皆 成功者がつくった前例にならい行動する傾向にある。そしてその結果 皆同類化する」というのがあるけど、周りを見渡すと確かに当たってるかもしれない・・・。
長~い独り言になってしまいました。
上で述べたことは、別に「道」の世界にとどまらず現在多くの世界に降りかかっている問題点のようにも思えます。
商売もしかり、街づくりもしかり、また宗教もしかり。
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さて、こういった現状を知った上で「他ではなく自分たちはどうあるか」が
実は私達チームのMovement 課題なのです。
グローバル時代のグローカル。
常に気づきがあってスマートに行動すれば
エッセンスというものはとても強く作用するものだと思います。
私達にとって脚下照顧なんてのは当たり前のことだけど
関係のデザインに携わる者は
うっかりトラップにはまらないように常に襟を正していきたいものです。
せっかくの人間関係、
たとえ商売であっても算数だけのお付き合いでは寂しいですからね。
僕らは堂々両道にて。
経済学部・体育会出身者の独り言でした。