心の重荷を下し前向きにさせてくれるカウンセリングそして居場所4
父という人
わたしの父について、もう少し詳しく書きます。父は8人兄弟の末っ子、昭和8年に茨城県の片田舎に生まれています。食べることには特に苦労したようです。話を聞く限りですが、祖母はかなりあくの強い人でした。母曰く「見るからに意地の悪そうな人だった」そうです。
父はしばしば警察から職務質問を受けていました。なぜおまわりさんから父は何回も叱られているのか、幼かったわたしにはいまだによくわからないのですが、もしかしたら世間一般のルールを理解し守ることができない人だったのかもしれません。
通常ありえないようなうっかりミスも多く、母曰く変わった人だったので、子供のころはいじめられっ子だったと、父本人がよく話していました。
忘れ物が多い、
感情のコントロールも下手で激情直下型、言葉でうまく気持ちが伝わらないと暴力に訴える。
たとえば父との思い出でこんなのがあります。
断崖絶壁の数十メートル下は荒れ狂う大海原という状況で、海が映るような構成で写真にうまく収めたいからと、私と妹に「もっと後ろへ下がれ」と父は命じるのですが、わたしはあと数センチ下がったらがけ下へ転げ落ちるかもしれないという、かなり危険な状況です。恐怖で「これ以上下がったら落ちちゃう!」と叫んでいるのに、父にはまったく通じない。結果的にわたしたちの悲鳴を聞きつけた係員によって助けられました。※当時は今のような安全管理は厳しくなかったのです。この手の記憶ならいくつもあります。
プライドが高い。
わたしは幼いころから情緒不安定だったこともあり、何度も幼稚園や学校から精神科受診を進められるのですが、父から出た言葉は「みっともねえ」だけでした。
父方の一族はそろって息をのむような美形。さらにあくが強い人たちが多く、兄弟仲はさほど良くなかったような印象を受けます。わたしが記憶する限り、父方の兄弟はほぼ全員家庭崩壊しています。
夫婦関係がもはや修復不能状態になった時、父は嬉々として母に離婚を迫りました。「ここを出てどこへいけというんだよ」と号泣する母を前に高笑いする父。 母と妹が出て行って半年後に、父は若い愛人と子供を家に連れてきて、わたしに「これから彼女をママと呼べ」とわたしに命令しましたが、さすがに10歳も年が変わらない金髪ギャルを母と呼ぶのは、わたしには難しいことでした。
すべて父のいうがままに故郷を捨ててついてきて、父の自立を一心不乱に助けてきた母の立場で考えると、これほど理不尽なことはなかったでしょう。
わたしが大学3年の時の出来事です。わたしは今の大学を続けたかったので、父方びついたのですが、父と愛人から猛烈ないじめを受けることになります。父はわたしにも出て行ってほしかったのでしょう。
父は言葉で伝える変わりに”いじめ”という手段をわたしに使ったのです。
さらに父の暴力は愛人と子供にも向けられていました。
ある時父の言いなりにならず自己主張をした愛人が、部屋にこもると父は縁側に回り「俺のいう事を聞かないと、とんでもない目にあうよ」とガラス戸の隙間から覗き込んで、愛人を脅迫している、ぞっとするようなおぞましい姿をかいまみて、わたしはこの家を出ようと決意したのです。
引用:「心の重荷を下し前向きにさせてくれるカウンセリングそして居場所