ノンキャリ出世~2~ なにもない季節
リアル島耕作。
ある経営者団体の仲間から、そう言われたことがある。
私の出世速度は速かったらしい。
そういうものにあまり興味がなく、だから他人や一般社会でのそのスピード感を知り得ていなかった私にとって、それはいまいちピンとくる呼称ではなかった。
しかし、そう言われてみればと思い返せることはある。
取引先のある営業マンが、一年のうちのある一定の時期に必ず私に面会を求め、名刺をくれとせがむのだ。
意味がわからなかった私が「えーっ、持ってるじゃん! 失くしたん?」と聞くと、彼はいかにも営業マンらしい人懐こい笑顔でこう言った。
「いやいや毎年もらっておかないと、知らない間に役職が変わってってるじゃないですか!」
あー、そーゆーことね……。
それはたしかに云えていて、役職というものは一年ごとに変わるものではないわなと、ようやく気付いたくらいだった。
繰り返すが、私は出世に興味がない。実際に出世している人間がいうと嫌味に聞こえるだろうから他言しないことにしているが(←その分、ココで言っている)、実際にはそうなのだから仕方がない。
経営者の勉強会などに顔を出していると、「社長になんかなる気はない」という私を、誰もが怪訝な表情で見つめ、唖然とされる。
まぁ経営者の勉強会という場なので、それは当然のことだ。だったらなんでお前はここにいるんだ! そう言いたいに違いない。でも、私かそこにいたのは社長になるためではなく、経営者の気持ちを理解するためだった。そして、いろいろな社長といわれる人たちの生態を知り、あるいは経営手法の良し悪しを知るためだった。
私には特技がある。
それは、言葉が通じなくても会話を成立させるというものだ。
そこに自我はない。ただひたすら相手の言いたいことをくみ取り、理解すること。まさに“受けの姿勢”だ。
だから「I am a pen!」(←boyではない)というレベルの語学力でも外国を放浪でき、老若男女と仲良くなれ、人並み以上の女性たちと濃密な関係を築けたのだと思う。
ただ、デメリットもあった。受けの姿勢を貫きつづけているとやがて、自分を語ることが出来なくなってしまった。そして当然、自分を理解してもらえる術を磨けなかった。
相手との信頼関係を築け、ようやく自分をさらけ出せるかなというころに自我を出すと、人が離れていくこともあった。特に女性はそうだった。
たった一人を除いては……(家族は除く)。
24歳は海外で過ごした。
目的もなくただぶらぶらと世界を歩く。いわゆるバックパッカーといわれるやつだ。
なぜ旅立ったのか。その理由を具体的に説明することは難しい。
小中学生のころは、クラスにいるのかいないのかもわからないほど目立たない存在だった。どれほど目立たないのかというと、イジメの対象にすらならないほどの存在感でしかなかったことが、その証と思っている。
こういうと、実際にイジメに遭っていた人たちには恨まれるかもしれない。だが、その代わりというわけではないが、私はよく、その人たちのそばにいた。しかしそれは、善意からくる寄り添いではなく、ともに闘う勇猛な精神が宿っていたからでもない。
たとえばクラスのイベントでペアを作るとする。クジでも席順でも出席番号順でもない、ただ単に「仲間をつくれ!」という担任の指示があったときの話だ。
自然と仲良し同士がペアを組んでいく過程で私は取り残され、同じく相手のいないいじめられっ子とペアを組むことがままあった。
私はこの瞬間が嫌いではなかった。もちろん、僕にも相手がいたという安堵からくる満足感はあるものの(最後に残った相手のいない独りぼっちよりいいだろ!という感覚)、それ以上に、相手のほっとした素顔を直視できることがうれしかった。これはおそらく相手も同じだったと思う。そしておそらく彼らが持っていた、学校内で周囲に対する疑心暗鬼の目が自分には向いていない安心を得られる特権だったとも思う(だからといって日頃から彼らと一緒にいることはなかったのだが)。
小中学校で存在感がないということは、勉強や運動、それにおもしろトークが出来るわけではなかったということで、もっといえば、特段の落ちこぼれでもなかったということだ。どちらにも振り切れない中途半端さが当時の私にはあった。その印象に間違いはないという記憶がひとつある。
あれは小学校四年生のこと。通知表をもらった瞬間に、担任に呆れられたことがあった。
「おまえさぁ、人にはみんな長所と短所というものがあるはずだぞ」
意味がわからないまま手にした通知表には、すべての科目に「3」の数字が並んでいた。特記事項には必ず「おとなしい」とある、子供のころの私はそういう存在だった。
高校に入ると仲間に恵まれ、常に誰かがそばにいてくれた。はじめたバイト先でも男女を問わず大学生の先輩たちになぜかかわいがられ、バイト終わりには夜な夜な街に連れ出された。
この経験は大きかった。学校に行けば水着のグラビアで興奮している連中が、夜の街でネオンのシャワーを浴び、終電はもちろん、時には始発で帰宅する私にとって子供に見えて仕方がなかった。
ということで高校生活で私が突き抜けたのかというと、そうではない。
仲の良かったクラスメイト(長期休暇やバイトのない日の放課後は、いつも都会のファストフードやビリヤードで時間を潰していた仲間)が、三年生になった途端に勉強をしはじめ、やがて医療の世界に身をほ投じていってしまったのだ。
「勉強たいへんだねぇ。えらいねぇ」
などとのんきなことを言っていた私は、どこか取り残されたような寂しさを覚えた。だが、バイト生活にて社会の、大人の世界の楽しさを知ってしまった私には進学する意思がなく、早く社会人になりたいと思っていた。
無理もない。当時はバブル経済真っただ中で日本中がおまつり騒ぎ。雨の代わりにお金が降ってくるのではなかいという錯覚させ覚えるほどだった。
話は前後するが、私は中学のころに、将来やりたい仕事がった。
ツアコン。日本語でいうと添乗員という旅行を引率する仕事だ。
この仕事に憧れたキッカケはドラマだった。
明石家さんまが主演した「男女七人夏物語」というドラマの中で、さんまさんが演じていた主役の仕事がツアコンだった。
そんな仕事があるのか! それだけだった。
だから高校は観光コースという科目のある私立高校へ進学し、旅行会社に入ろうと思った。ところが当時はすでに、旅行会社で高卒は採用していないと知り、その職種に近似する一流ホテルに就職することにした。
観光バスや鉄道会社でもよかったのだが、ホテルマンというカッコよさに惹かれたのが大きな理由だった。
就職したホテルでは、和食レストランのウエイターという、意図せずとも目立つ職場への配属を任命された。
なぜ和食レストランのウエイターが目立つのかというと、理由は単純だ。
和食といえば着物。着物といえば女性。だから私たちの年代が入社する年まで、和食レストランには男性のがいない、女性だけの職場だった。そういえば、おのずと想像がつくだろう。つまりギスギス状態のすさんだ環境に男の子を入れてみる、という実験台に活用されたのだ。だから社内では目立ってしまった。
名前すら知らない先輩から「大変だろ」と哀れみを受けることもあったが、実際の私はそう感じることがなかった。なぜなら、かわいがられたからだ。
おとなしく、自己主張をしない若い男の子というのは、年長の女性たちにとってお人形みたいなものなのだろう。会社の目論見は当たったといってもいい。私を緩衝材として職場が明るくなったと、後に幹部から聞かされた。
その当時、どれだけかわいがられていたのかを物語るバレンタインのエピソードがある。私のバレンタイン獲得記録23個というレコードは当時のもので、未だ破られていない。その23個はすべて義理なのだが、そのことには触れないでおくれ。
職場の雰囲気がよくなったのは会社としてはいいことなのだろうけど、私自身が何かをして成し遂げられたことではないので、やりがいを感じることはなかった。
「あれやっといてー」
「はいよー」
「ねぇ、ちょっと聞いてよ!」
「どうしたの?」
私が会社の期待に応えられたのは、お姉さんたちのフォローをしまくっていたからなのかもしれない。社会に出ても、自我の芽を見つけ出すことは出来ず、やがてそれがフラストレーションになっていったのかもしれない。
このままじゃダメだ。
なんかつまらん。
いつかみてろよ。
不意にそうつぶやくことが増え、ある出来事をキッカケとして私は外国への旅立ちを決心した。そのことはまたの機会に触れたいが、実際に外国をうろうろとしていると、サラリーマン生活をしていただけでは得られない出会いがたくさんあった。
そしてそこでの様々な出会いに感化された私は、ひとつの夢をもって帰国し、しかしその夢をかなえるための努力をせぬままただ語るだけの、うすっぺらな生活を続けていた。
そんな私を応援してくれていた女性がいる。
当時、36歳だか37歳だか、とにかく一回り程度の年上の、とても美しい女性だった。
その辺の話もまた次回に。