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連載「プルーストを読む生活」を読む生活④

2021.02.27
 こないだのやつに、日付を入れるのを忘れた。
 「馬馬虎虎」(まーまーふーふー)。
 だいぶ前に開高健の本かなにかでこの言葉に出会ったな。
 馬のようにも見えるし、虎のようにも見える。意味は確か「なんだかよくわからない」だったような気がする。出典も意味も、間違ってたらすみません。

 うちにくるお客さんと、「文系は何だか虐げられてますよねー」という話題にたまになる。
 大学では文系の研究に予算がなかなかつかなかったり、割り当てられるコマがだんだん少なくなってたりするという。お金にならない、物を生み出さない学問は立場が悪くなってきているそうだ。
 一方テレビを見ていると、知識の量や、頭の回転の速さを競う番組がやたら目に付く。

 学生時代、よくゲームセンターに通っていた。シューティング、パズル、格ゲーなどなど、あまたあるゲームジャンルの中にクイズゲームというのがある。かつてこのクイズゲームについて、作家の長嶋有と読者との間に論争が繰り広げられていた。(「競うべきは勤勉さではなく」ブルボン小林『ゲームホニャララ』所収)

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 ゲームを攻略するためにゲームで出題される問題を記録し、正解を家で予習するという読者に対し、長嶋有はそれを「悪くないが格好悪い」と喝破した。

 クイズ番組に出てくる「クイズ王」たちだって勉強してるじゃないか、という反論に対しては、クイズ番組は出題される問題が前もってわからないという点において、ゲームの公正さが保たれている、と反論する。

 私の目からは、長嶋有に喰ってかかる読者も、「クイズ王」も、自らの頭の良さを披瀝しポジション上げしようとしている点では、全く同じに見える。

 今世間で「教養」と思われているものは、自分が思っているのとずいぶん違う。何が違うといわれてもうまく答えられそうになく、まあ大まかにいえば「質と量」みたいな話になってしまう。あるいはそれは単なる「知識」であって「教養」ではないよ、と。

 釣った魚を「知識」とするなら、魚を得るためになされた工夫(竿とか仕掛けとか餌とか)や、釣り場に行くまでに見た木々の緑、聞いた鳥の囀り、釣り場で出会った他の釣り人と交わした会話等か「教養」であると思う。

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