朝比奈まふゆについて 第二章:どうしたら朝比奈まふゆは救われるのか(後編)
第二章前編はニーゴのメインストーリーのうち、まふゆを心配してセカイにやってきたK、えななん、Amiaをまふゆが拒絶した点までを扱った。そして今回扱う内容はそのクライマックスである、Kが朝比奈まふゆを「見つけた」シーンであり、そこから朝比奈まふゆが見つけた「本当の自分」とは結局何だったのか、そして、そこから導き出される朝比奈まふゆが「救われる」条件は何か?ということを考察する。
つまり、今回が朝比奈まふゆに対する一連の考察の本領である。後半に行くにつれてわかりにくくなるニーゴのストーリーをとにかく明快にすることを目指したので、やはり20話まで先に読了してから読んでほしいし、俺と解釈違うじゃねーか!という人はぜひコメント相撲をしに来てほしい。
2.4 否定された「朝比奈まふゆ」
2.3でまふゆがニーゴの3人を追い出したのちも、まふゆは「本当の自分」を探すため、「OWN」としての活動を続けていた。しかし結論から言ってしまえば、それは不可能なことだった。
「OWN」の曲を聴いた人間は、ただ一人、Kを除いては「これが新人か!?どうせプロが転生してんだろ」「狂ってやがる……でもどこか引き込まれてしまう」などのようにその世界観に驚嘆し、その才を褒め称えるばかりであった。もちろん、それはまふゆの本意などではない。むしろ、どれだけ曲を作っても、ただ褒め称えられるだけ、つまり、剥いても剥いても中身が出てくるタマネギのように、その非凡な才能によって他人が望むことをして褒められる、現実で見せている「偽りの自分」の姿が目に浮かぶようになる。
「本当の自分」を求めてKの元を離れ、ニーゴの「雪」を捨ててまで一人で作曲にこれだけ勤しんでいるのに、そこから見えてくる自分が全て「偽りの自分」でしかない。それはきっと、彼女にとっては屈辱以外の何物でもないのだろう。
まふゆは本当の自分を求めるためにますます焦るばかりであった。それゆえに常人にはありえないようなペースで曲を上げた。そしてそうした曲のどれも、それまで以上に冷たく、危なっかしく、他人をどこまでも拒絶する曲となっていた。それだけ、「生き急いで」いたということだった。
やがてついに限界が来た。ある日学校に登校したまふゆは、友達が面白い面白いと言っていた動画を見て、「うん、そうだね。とてもつまらない」と答えてしまった。それまでずっと、「いい子」であることを外装とすることに努めていたまふゆが、ついにその外装を他人の前で脱ぎ捨ててしまった。「いい子」として見られることに、とうとう限界が来たのである。これには疲れすら感じない程様々な感覚を失ってきたまふゆですら、こたえたようだ。
惨劇はこれでは終わらなかった。中学の頃からまふゆが使ってきたシンセサイザーをまふゆの母がゴミに出そうとしていた。この時、完全にまふゆの心は打ち砕かれた。「本当の自分」を求めて音楽を作っている、自分自身が否定されてしまったから。そして、まふゆの母は相変わらず、自身の望みをまふゆに押し付けるだけだった。
こうしてまふゆはとうとう、「OWN」として音楽を作ることで「本当の自分」を探すことを諦めた。つまり、「本当の自分は見つけられなかった」という結論に至ったのだ。そしてセカイに入ったまふゆは、「ミク、もう……疲れたよ」と言った。ミクはそこで、だったら私は歌おうと、まふゆがKから初めてDMを受け取ったときに聴いた曲を歌おうとした。
しかし、まふゆはそれを止めた。しかも、それまでの棒読みではない、怒気を孕んだ口調で。「その曲は足りなかった」というのがその理由だった。期待するだけ無駄だったのに、そんな状況でいまその曲を聴いたらまた同じことになる、そう思ったのだろう。
歌うことを禁じられたミクはその代わりに、まふゆの傍にいた。そこでじっと、消えようとするまふゆを優しく見守っていた。しかし、そこでミクがまふゆの傍にいたのは、きっとKが来てくれると信じて、まふゆがいなくなるまで待とうとしたから、の方がきっと本当だろう。なぜなら、何度も言うように「消えたい」はまふゆの本心ではないからであり、そうであれば消えようと望むまふゆに消えることを許すのはミクの望みではないのである。
そうして、ミクはまふゆの傍で、Kを待った。そして、ミクの思いは通じ、Kが現れ、Amiaもそこに駆けつけた。
2.5 「本当の自分」はここにいる
Kは初めてセカイでまふゆと会った時に、「Kの曲を初めて聴いたときは救われたと思った。でもそれじゃ足りなかった」と言われ、それをずっと引きずっていた。父が倒れて以来、ずっと、「誰かを救える曲を作らなければ」という想いを背負って生きてきたKにとっては、それ以来ずっと、誰もいないセカイに消えた「雪」を救うための曲を作ろうと悪戦苦闘し続けた。そしてその焦りがOWNの連続新曲アップによって高まっていたなかであったが、なんとか曲を完成させ、まふゆの手元にAmiaを連れて持って行ったのである。
しかし、まふゆはそれすらも撥ね退けた。それどころか、「出てってよ……私のことなんか何も分からないくせに勝手に入ってこないでよ!!」と激昂してしまった。この描写からも当時のまふゆがいかに追い詰められていたかが窺い知れるであろう。
しかし、Kはそれでも、「雪の気持ちはわかる」と言った。消えたいのは私も一緒だから、と。しかし、消えたくて仕方がないなかでも曲を作り続けるしかない、だから雪のために曲を作ったんだと。―――それをまふゆは「呪い」と呼んだが。
そして、Kの呪いはどうでもいい、私を巻き込むなと再びの宣告。それは自分が救われたいがための悪あがき。お互い苦しいだけ。消えたいのに、どうしてそんなことを?と言った。しかし、Kは呪いであるとしても、まふゆを救うための曲を作るという。
なぜならば、その「呪いであっても、誰かを救える曲を作る」という行為そのものがKの存在意義であるからである。これはまふゆが早々に救われることを諦めようとしていたのとは対照的である。もう誰も、自分の目の前で消えてほしくないからこそ、後からやって来たえななん、それにAmiaに色々言われようともう期待なんかしたくない、と叫ぶまふゆの前でも、それでもいつまでも作り続けると言い続けた。Kが消えるとしたら、それはもう誰も救えない、という絶望に駆られた時。だけど、その時、特にまふゆが「まだ見つかっていない」と言えば、すなわち、そこに誰かを救える好機さえあれば、消えることはなく、作り続けられる。そのようにKは語ったのである。それはそうやって、「自分の曲で誰かを救う」というやり方で自分の生き方を見出しているからこそ、言えることなのである。そしてそれこそが、Kのエゴである。まふゆから「呪いを自分から増やしにいくようなこと」と言われても、雪の分が増えてもなんでもないと言い張れる。例え見つからないとしても、その「過程」にKは生きている。そこが「結果」に拘ったまふゆとは対照的だったのである。
それが、結果的にはまふゆの心を動かしたのである。そうやって、ずっと、作り続けようという姿勢がまふゆに響いた。なぜだろう?それは、そうしてくれることが、言い換えれば朝比奈まふゆの「本当の想い」の一つの形だからである。本当の自分を見つけようとするまふゆに対して、Kがそうなるまで曲を作ると言ったことそれ自体が、まふゆの「本当の想い」として本来セカイに設定されていた、「自分を理解してくれる仲間に出逢う」ことに同じだったのである。そして、その一部始終を見届けたえななんとAmiaもまた、この意味での仲間だったのである。その理解のされ方はこの3人では少しずつ異なるが、それでも「本当の自分を探そうとする朝比奈まふゆの存在を理解した」という根幹の部分が等しいので、そう言えるのである。
こうして、まふゆは本当のところで、自分を理解してくれる真の仲間と出会えたのではないかと思った。さらに、その後、Kが、OWNの曲の中に「雪の音がした」と言ったことで、この思いは「確信」に変わり、ミクは「よかった。『本当の想い』を見つけられたんだね」と言ったのである。
……と、ここまではどの考察でも言われているような内容である。なのでこの考察の本番はここからである。最初に立ち返るべき問題は、「朝比奈まふゆが見つけたかった『本当の自分』とはなんだったのか?」というところである。これの答えだが、メインストーリーにおいてはぼかされているばかりで結局我々にはよく分からないまま、「まふゆは自分を『見つけたかった』のではなく『見つけてほしかった』」という結論が先に出てくるのである。まずはこのあたりのブランクを補わなければならない。
この問題には結論から答える。朝比奈まふゆが見つけたかった「本当の自分」は「今ここにいる自分」である。繰り返す。朝比奈まふゆが見つけたかった「本当の自分」は「今ここにいる自分」である。
実は、これ自体は所謂「自分探し」モノによくある帰結である。そしてこの場合もこう考えれば納得がいく。結局、朝比奈まふゆが求めていた本当の自分は、そうやって「本当の自分を求めている自分」なのであって、まふゆが本当の自分を見つけようとしてドツボにはまったのは、そこ以外に自分がいるはずだと頑として信じたためである。さらに言えば、他人に「偽りの自分」しか見られなかったことがまた、「本当の自分」は自分で見つけなければならないという思いを加速させたのであるが、結局は灯台下暗しで自分のことは自分が一番分からないから、そういう思い込みに陥ったのである。だから結局、「誰かに自分を見つけてもらう」ことが本当の想いであることは、そもそも「自分では見つけられないから誰かに見つけてもらうしかない」と考えるのが正しくなる。
これを仮に、今、ここ以外に「本当の自分」がいると考えたら、どうなるか?これは直ちに矛盾であると分かる。なぜなら、もしそうだと仮定したら、まふゆの「本当の想い」が叶わないからである。
……少し頭が混乱してきたのではないだろうか?それも無理はない。数学でもなんでもそうなのだが、こうして本質的なところと不可分に絡み合うところを証明するのは難しい(ex.∀a∈K;0a=a0=0の証明)。なので、とにかく「今ここ」に「本当の自分」がいるという結論を覚えてもらうしかない。
そしたら次の問題。では、結局まふゆの「偽りの自分」とはなんなのか?というものである。これも結論から答えれば、「本当の自分」の一部である。これはゲーム中では「『いい子』の自分」と称される部分だが、脳死の応答によって身につけられたこの虚飾でさえも、「本当の自分」たり得るのである。これは、理由は単純で、「今、ここ」にあるからである。
それが証拠に、☆3サイドストーリー後編では、「前より、いい子の自分に違和感がなくなってる気がする」という描写が出てくる。これは20話よりも後の描写である。すると、まふゆは今度は逆のこと、つまり「みんなの前に『いい子』じゃない自分が出てくる」こと、そしてそれがいいのか悪いのかを気に掛けるのである。それまで明確に線を引き分けていた、あるいはまふゆ自身がそうだと信じていた、「いい子」と「いい子」でない自分の境界がどんどん、曖昧になっていくのである。
もちろん、この曖昧さは、まふゆが本当の自分を「見つけてもらった」ことに始まっている(20話終了後の話であるので)。それまでは「偽りの自分」の側にしか理解者がいなかったのに、そうでない自分の側にも理解者がいることになるから。すると、それまで明確に場所と役割を分けられていた2つの人格が、同義なものになり、これによってまふゆの中には2種類の人格、すなわち「他人の態度を見ていい顔をする自分」と「他人に対して不器用で態度の悪い自分」が見かけ上は区別されながらも本質的に同じものとして両方現れることになるのである。
そしてさらに指摘するべきことはどちらも根源が全く同じ人格で、そしてその根源が「今、ここの自分」でもあることである。そして、その「今、ここの自分」は現状どうであるかと言えば、全能と言っても差し支えないほどの能力的な強さを持っているのに、何も感じられない、何にも興味を持てない、何も決められない、そして、追い込まれるたびに「消えたい」と願ってしまうというなんとも人間として弱々しい姿をしているのである。このアンバランスさが、この見た目両極端な2つの人格を生むそもそもの原因だ。
しかし、これこそが朝比奈まふゆそのものである。だからこそ、ここで朝比奈まふゆにとってこれから立ちはだかるであろう最大の壁の存在と、その中身を予言する。
朝比奈まふゆにとって最大の壁となるもの、それは、この「今、ここにいる自分」を肯定することである。
なぜなら、朝比奈まふゆはまだ、本当の自分が他人に認められたことで安心感を得ているだけの弱い状態に過ぎないからである。本当の自分は、既に見つけられている。奏によって、絵名によって、瑞希によって、そして、全てのプレイヤーによって。だが、その自分を今度は「肯定する」という、自分探しの旅においての最重要事項を、現在のまふゆはどこかにほっぽり出している。それでは、いつまでも自分の現在に対する迷いを捨てきれず、そのうち何もかもが分からなくなって、追い込まれて、また消えようとするかもしれない。しかし、それを防ぐために自分を「肯定すること」それ自体が、今のまふゆの「本当の自分」に妨げられているという矛盾が起きているのである。
この矛盾を解決するために、まふゆは「自分の意思」を取り戻さなくてはならない。どこかに置いてきた自らの意思を。そして、それを乗り越えることが出来なければ、朝比奈まふゆはいつまでも救われない。そして、それをするためにも、やはりその周りにいる奏、絵名、瑞希の力が必要なのであり、これこそがまふゆがアクアリウムの中に入れるべき生き物なのである。
あとがき
今回、朝比奈まふゆについて考察して、この明快な結論に至ったときはまるで誰も解いたことがない数学の問題を証明したかのような気持ちになった。端から見れば気持ち悪そうだが私としては大変気分がいい。しかし、これは数学でもなければ論理学でもなく、「朝比奈まふゆ」についての考察であることを忘れてはならない。
そうであるからこそ、人には人のやり方があるし、答えも違ってくるだろう。何より、私が提示した答えも偽であると反証されるかもしれない。だからこそ、この文章が共感され、批判され、さらに読者の朝比奈まふゆへの理解の助けになるならば、これほど嬉しいことはない。しかし、この文章を読んだだけで、もしあなたが「朝比奈まふゆを完全に理解した」と考えるならば、これほど悔しいことはない。
つまり、これはあくまでも、朝比奈まふゆについて考える全ての人間にとってのガイドでしかない。私自身も、先駆者がnoteに上げたニーゴ評を読むに際しては、それに内心共感したり、批判したり、またあるいはそれを理解の助けとして得たりして、この文章を書くための糧にもしたわけである。全ては「ただ読む」のではない。「読み解く」のだ。そういう姿勢がなければ、朝比奈まふゆと真摯に向き合うことは出来ない。
というより、本気で朝比奈まふゆを推す気があなたにあるなら、それは単なる感情移入では終わってはいけない。必ず理性によって、言葉によって、あなたの「朝比奈まふゆ」観を作り上げなければならない。そのやり方は何だっていい。イラストでも、音楽でも、十二分に「朝比奈まふゆ」観たりえる。しかし、これを怠ると、あなたの中に朝比奈まふゆが、確かなものとして残らない。実際、そういうことが原因で頻繁に「推し変」するオタクが跡を絶たない。過去の推しを否定することは、過去にそのキャラを推していた自分も否定することになってしまう。そして、それはとても悲しいことではないだろうか?
そういう意識があって、私もこのnoteを書いたり、pixivで執筆活動をするに至っているのである。もちろんこれをどう思うかは読者の勝手だとは思うが、読者にもそうした姿勢を大切にしてほしいという私の願いを伝えたところで、第二章の結びとする。
第三章はここまでの内容を踏まえた上で、これから朝比奈まふゆを救うべき「宵崎奏」「東雲絵名」「暁山瑞希」の3人についてと、それぞれと朝比奈まふゆとの関わりを本格的に考察する。その上で、今後ありそうな展開の予想にも踏み込む。
今回もそうだが、コメントでの感想・指摘等は歓迎する。全て読む。可能な限り返信する。