「ふたりの足跡」

東京の空は、梅雨の季節を迎え、重く垂れ込めた雲が街を覆っていた。雨が降るのか、それとも持ちこたえるのか。そんな微妙な天気の中、**藤原紗英(ふじわら さえ)**は仕事を終えて、帰り道のカフェに足を運んだ。

「いつもの席、空いてるかな…」

彼女は、週に数回このカフェに立ち寄り、静かな時間を過ごすのが習慣になっていた。外の喧騒を感じさせない落ち着いた店内、窓際の席からは細い路地が見える。その風景を眺めながら、一杯のカフェラテと一緒に過ごす時間が、彼女にとって何よりの安らぎだった。

紗英は28歳。都内の出版社でエディターとして働いている。小説やエッセイなどの編集を手がけ、仕事自体には充実感を感じていた。けれど、心のどこかにぽっかりと穴が開いたような感覚が、彼女を常に取り巻いていた。

「もう恋愛なんて、しなくてもいいんじゃないか」

彼女はそう自分に言い聞かせるように、過去の出来事から目を背けてきた。2年前、彼女には婚約していた恋人がいた。彼とは大学時代からの付き合いで、お互いに支え合いながら過ごしていた。だが、結婚を目前にして、彼は突然姿を消した。理由はわからなかった。連絡も途絶え、彼の姿はどこにもなかった。

それ以来、紗英はもう誰かを愛することが怖くなった。再び同じ痛みを経験するのではないかという不安が、彼女を新しい恋愛から遠ざけていた。

その日、カフェに入ると、見慣れない男性が彼女の「いつもの席」に座っていた。

驚いた紗英は、一瞬足を止めた。その男性は、ノートパソコンを前にし、何かを熱心に書いている。短髪で少しラフな服装だが、どこか知的な雰囲気が漂っていた。

「今日はここに座れないのか…」

内心で少し残念に思いながらも、紗英はカウンターで注文を済ませ、別の席に座った。だが、どうしてもその男性が気になってしまい、何度か視線がそちらに向かってしまう。

「誰なんだろう。見たことない顔だけど…」

その時、男性がふと顔を上げ、紗英と目が合った。お互いに少し驚いたような表情を見せたが、次の瞬間、男性が微笑んで会釈をした。紗英も思わず軽く頭を下げた。

その数日後、彼女は再び同じカフェを訪れた。

そしてまた、あの男性が「いつもの席」に座っていた。まるで自分のルーティンが崩されるような感覚に、少しだけ戸惑いを覚えた。だが、次第にその存在に慣れていく自分もいた。

そして、ついに三度目の来店の時、男性が紗英に話しかけてきた。

「こんにちは。最近、よくここでお見かけしますね。もしかして、常連さんですか?」

紗英は少し戸惑いながらも、にこやかに答えた。

「ええ、まあ。あなたも、最近よくここにいらっしゃいますよね。」

「そうなんです。僕も最近、このカフェの雰囲気が気に入って通うようになりました。」

男性は、**三浦直人(みうら なおと)**と名乗った。彼はフリーランスのライターで、執筆の仕事をするためにこのカフェを使っているということだった。二人は自然と会話が弾み、共通の趣味や仕事について話し合うようになった。


数週間が過ぎ、二人の間には次第に親密な空気が流れ始めていた。

紗英は、自分が直人との時間を心地よく感じていることに気づいた。彼の優しさと穏やかな性格に触れるたびに、過去の傷が少しずつ癒えていくような感覚を覚えた。けれども、その一方で、彼女の心には依然として恐れがあった。

「また同じようなことが起きたらどうしよう…」

ある日のこと、直人が紗英に提案をした。

「今度、一緒にどこか行かない?最近、ずっとここで会ってばかりだから、たまには外の空気もいいかなって思って。」

その誘いに、紗英は一瞬答えに迷った。彼と一緒に過ごす時間が楽しい一方で、これ以上踏み込んでしまうことが怖かったのだ。

「…ええ、いいわね。でも、私も仕事が忙しいから、あまり遠くには行けないかも。」

「大丈夫。近場で気軽に行けるところを探してみるよ。」

直人の提案に、紗英は心の中で少しだけ安心した。彼は無理をせず、彼女のペースに合わせてくれる。それが彼女にとって、大きな救いになっていた。

数日後、二人は週末に都内の美術館を訪れた。

直人は紗英に、芸術に触れることで日常のストレスを解消するのが好きだと言った。美術館の中、二人は静かな展示室を歩きながら、様々な絵画や彫刻について語り合った。

「この絵、面白いわね。何だか不思議な感覚になる。」

紗英がふと足を止めて見つめたのは、抽象的な風景画だった。色彩が大胆に混じり合い、見る者の想像力を掻き立てるような作品だ。

「本当に。何を表現しているのか分からないけど、心に残る感じがするね。」

直人もまた、同じ絵をじっと見つめていた。二人は長い時間をかけて、その絵に引き込まれていった。


美術館を出た後、カフェで休憩を取っていると、ふいに直人が口を開いた。

「紗英さん、僕、君と一緒にいるとすごく落ち着くんだ。こういう時間をもっと大切にしていきたいと思ってる。」

その言葉に、紗英の心が揺れた。彼の気持ちが、自分に向かっていることを感じ取ったからだ。

「ありがとう。私も、直人さんといると安心できるわ。でも…私はまだ、過去のことで迷っているの。」

紗英は、これまで心の奥に閉じ込めてきた感情を、初めて直人に打ち明けた。2年前の婚約者との別れのこと、そしてそれ以来、恋愛に対して抱いている恐れのことを。

「だから、今はまだ誰かと深く付き合うのが怖いの。直人さんには、そのことを知っておいてほしい。」

直人は少し驚いたようだったが、すぐに優しい笑顔を浮かべた。

「君が過去に何があったかは知らなかったけど、今こうして君と一緒にいられることが僕にとっては大切だ。無理に急がなくてもいい。君が少しずつ前に進めるように、僕も支えていきたいと思う。」

その言葉に、紗英の心は少しだけ軽くなった。直人は、彼女の過去を否定することなく、今の彼女をそのまま受け入れてくれていた。

その日、二人はゆっくりと東京の街を歩きながら、穏やかな時間を共有した。

紗英は、過去の傷が完全に癒えるにはまだ時間がかかるかもしれないと感じていた。だが、直人と過ごす時間が少しずつ彼女の心を変えていくのを感じていた。

そして、少しずつでいいから、もう一度、誰かを信じて愛することができるのかもしれないという希望が、心の中に芽生え始めていた。



紗英と直人の関係は、穏やかで、ゆっくりとしたペースで進んでいった。直人の優しさに触れ、紗英は少しずつ心を開き始めたが、まだどこかで「また同じことが起きるのではないか」という不安が心の奥底にくすぶっていた。

ある日、出版社での仕事中、紗英に思いも寄らぬ連絡が届いた。

それは、かつての婚約者、**高木康平(たかぎ こうへい)**からのメールだった。2年ぶりに受け取ったそのメッセージに、紗英はしばらく動けなかった。

「突然ごめん。ずっと連絡できなくて申し訳ない。話したいことがある。会えないか?」

短いメッセージだったが、その言葉が彼女の心に突き刺さった。康平は2年前、何の前触れもなく婚約を破棄し、姿を消してしまった。その後の彼の行方も知らず、なぜそうしたのか、理由を聞く機会さえ与えられなかった紗英。彼の突然の再登場は、紗英の心に眠っていた過去の傷を再び呼び覚ますこととなった。

「今さら、どういうつもりなの…」

紗英はメールを閉じ、そのまま仕事に戻ろうとした。しかし、過去に対する疑問と、康平の真意を知りたいという気持ちが交錯し、頭の中はすっかり混乱していた。彼女の心の中で、二つの感情がせめぎ合っていた。過去を忘れ、前に進みたいという気持ちと、過去に何があったのかをきちんと理解しなければならないという思いだった。


その夜、紗英は直人といつものカフェで会った。

しかし、康平からの連絡を受けた後の紗英は、どこか落ち着かない様子だった。直人もそれに気づいていたが、何も言わずにコーヒーを口に運んでいた。

「紗英さん、今日は何かあったの?」

彼が優しく問いかけると、紗英はしばらく黙ったままだった。直人に全てを話すべきか迷ったが、彼には嘘をつきたくないという気持ちが勝った。

「実は、昔の婚約者から急に連絡があったの。2年前、何も言わずに私の前から消えた人なんだけど…」

紗英の声は少し震えていた。直人は黙って聞きながら、時折うなずいていた。

「それで、話がしたいって言われたんだけど、どうして今さら…正直、会うべきか迷ってるの。」

直人はしばらく考え込んだ後、ゆっくりと口を開いた。

「紗英さんがどう感じているかが一番大事だと思う。彼と会うことで、過去に区切りをつけられるなら、それも一つの選択だよ。でも、それが辛いなら無理に会う必要はないんじゃないかな。」

直人の言葉は、いつも通り穏やかで、紗英を安心させた。彼は無理に自分の考えを押し付けることなく、紗英が自分で答えを出せるように導いてくれている。それが、彼の優しさであり、紗英が惹かれている理由だった。

「ありがとう、直人さん。もう少し考えてみる。」

紗英は微笑んだが、その胸にはまだ重いものが残っていた。


翌日、紗英は決心して康平に返信を送った。

「会うのはいいけど、ちゃんと理由を話してほしい。」

数分後、康平からすぐに返事が返ってきた。

「ありがとう。今週末、時間ある?」


週末、紗英は待ち合わせ場所に向かった。

都内の静かなカフェ。心臓が早鐘のように鳴り響くのを感じながら、紗英はドアを開けた。そこには、変わらない康平の姿があった。少し痩せたように見えたが、顔つきは当時と変わらなかった。

「久しぶりだね、紗英。」

彼の声は少し低く、どこか沈んでいた。

「そうね…どうして急に連絡してきたの?」

紗英は最初から本題に切り込んだ。これ以上、無駄な感情に振り回されたくないという思いが強かったからだ。

康平はしばらく視線を落としていたが、深く息を吸って話し始めた。

「2年前、突然いなくなってごめん。本当に何も言わずに消えたこと、後悔してる。でも、どうしてもその時は、君に何も言えなかったんだ。」

「…理由を教えてよ。」

紗英の心は複雑だった。許せない気持ちがまだ残っている一方で、彼の言葉に真実があるなら、それを知りたいとも思っていた。

「実は、あの頃、父の会社が倒産して、僕も家族もすごく苦しい状況だったんだ。結婚どころか、自分の生活もままならなくなって…その時、君を巻き込むわけにはいかないって思ったんだ。君を幸せにできる余裕なんて、全くなかった。」

康平の話を聞いて、紗英は一瞬言葉を失った。そんな事情があったとは知らなかった。彼の姿が消えた理由をずっと知りたかったはずなのに、いざ聞いてみると、複雑な感情が渦巻いた。

「でも、だからって、何も言わずに消えるなんて、私には耐えられなかったのよ。私は、あなたと一緒にその困難に立ち向かう覚悟だってあったのに。」

紗英の声が少し震えた。彼女は、当時の絶望感を思い出しながら、心の中で湧き上がる感情を抑えきれなかった。

康平は申し訳なさそうに目を伏せた。「本当にごめん。でも、当時の僕にはそれしか選べなかったんだ。今さら言い訳にしか聞こえないかもしれないけど、君を守りたかったんだ。」


その夜、紗英は帰り道を歩きながら、康平との会話を反芻していた。

彼の言葉には真実があった。しかし、過去は過去であり、それを変えることはできない。そして今、彼女には直人という新しい存在がいる。

帰宅してから、紗英は直人にメッセージを送った。

「今日は元婚約者と会って話した。彼にも事情があったみたい。でも、もう過去のことにしたいと思う。」

直人からすぐに返信が来た。

「紗英さんがそう決めたなら、それが一番いいと思う。僕はいつでも君のそばにいるからね。」

その言葉を読んで、紗英の心に温かい気持ちが広がった。過去にとらわれ続けるのではなく、未来を見据えた選択をすること。それが、彼女にとっての次の一歩だった。


数日後、紗英は再び直人とカフェで会った。

彼女は直人を見つめ、はっきりとした声で言った。

「私は、やっぱり直人さんと一緒にいたい。過去のことにきちんと区切りをつけたから、今は前を向いて進もうと思ってる。」

直人は柔らかく微笑んだ。

「僕も同じ気持ちだよ。君がそう決断してくれて、本当に嬉しい。これから、少しずつ一緒に歩んでいこう。」

二人はゆっくりとお互いの手を取り合い、確かな絆を感じていた。雨上がりの街は、少しずつ晴れ間を見せていた。

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