泣きじゃくり、なおかつ弱い
人生のたいはんを「憂鬱」とともに過ごした。
「憂鬱」は嫌なものだ、花の色さえ見えなくなる。
暑さが身体にまとわりつく、
年齢のせいもあるだろう、明らかに息苦しい。
水分と塩分、栄養と睡眠。
心がけてはいるがこの夏はたしかに異常だ。
ここにきて不思議なのは
飼い慣らした「憂鬱」をちかごろの私は忘れている、
生活状況、経済状態、人間関係に以前とは異なる変化があったわけでもないが、
あの手足をもがれたような「憂鬱感」を、
少なくとも今、この瞬間の私は手放している。
「憂鬱」がダイレクトに懐かしいほどに、
今の私は「憂鬱」から遠い。
たいていを「諦める」のはいい方法だ。
思いついた未来はそのほとんどが妄想でしかない。
多くを「諦め」、それでも最後に残ったいくつかを強く眺める。
たったひとつの歌。
一瞬の恥じらい。
純粋から逃れられない笑顔。
欲しいものから身をはがして
ようやく手に入れるダイヤモンドの心臓が打つビートに感覚を研ぎ澄ます。
前向きだとか、そんな退屈な言葉は選ばない。
ただ息をしている。呼吸をしている。
全身、音に打たれている。
とどろく雷に驚いて、身近な愛にしがみつく。
それがぜんぶ。
死なない。
でも。
なにもかもどうでもいい。
どこで習った。
相対的なんて言葉。中庸、ほどほど、同調圧力。
いつのまに汚れた。
走る走る止まらない走る。
止まる止まる走らない止まる。
どれだけ稼いだとしても、
最終的には
「最高級の老人ホーム」を3億かけて購入することが目標の
人生を選びたくはない。
空を仰いで海に遊ぶ。
苦しいだろうな、せつないだろうな。
下田から千葉まで浮き輪ひとつで流れた女性の話を
先日ニュースで聴いた。
浮き輪ひとつじゃわたしなら正気を失う。
泣きじゃくり、なおかつ弱い。
聴きたい。
懐かしいひとの声と古いロクンロール。
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