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少女Aと藍色の卓球台 ひとりだ。なんてことはない。

 夫はわたしの文章を読もうとはしない。わからないから、だという。でもそれだけではない。彼はわたしの文章が嫌いなのだ。
 クセがある。
 話が飛ぶ。
 論理的ではない。
 気取っている。
 そんなところだと思う。

 わたしは文章をある程度は「創る」。
 自分の感覚に従い、言いたいことと書きたいことの間に間隔、あるいは時を置く。
 誰に習ったわけでもない。
 どこかで調べたわけでもない。
 なにもかもが自分の感覚でしかないし、それ以外を求める気持ちも、それ以外に従うつもりも、今はない。
 そもそもジャンルというのがわからない。
 エッセイ詩小説散文詩あるいは絵画に似たような何かを演っているのか、
 ただの思いつきを好きなように書き連ねているのか。
 誰も教えてくれないし、誰かにたずねる意志もない。

 ただ思うのだ。
 誰であれ人間には「芯」がある。
 その「芯」を見つける、あるいは「芯」に従う過程を人生と呼ぶ。
 わたしは自分の「芯」に従う手段として、おそらくは「書く」ことを選んだ。あるいはついつい、うっかりして、仕方なく、選んでしまった。「書く」という動詞が放つ誘惑に逆らえなかった。
 勇気もないくせに。誰より弱いくせに。
 何年もたった。
 いまだに後にひけない。
 「書く」から逃れられない。
 逃げてもいいんだ。
 それはわかる。
 逃げてもいいのだが、あえて逃げずに自分を自由にさせている。
 あえて自分に傲慢と苛立ちと迷いを与えている。
 「いつ逃げてもいいんだよ」と、キツネがささやいた。新見南吉のキツネではない。イソップ物語のキツネだ。
 
 一方で。
 「芯」を求める自分のかたわらに
 いつでも逃げ道を用意している。
 「どうでもいいじゃん」
 「明日のことは明日考えればいいし」
 「だって食べるのに困ってないし」
 「楽しく過ごすのがなにより大事」
 「神さまが待っているから」
 「もともと才能なんてない」
 逃げ口上はいくらでもある。


 想い出は影のようにつきまとう。それぞれに色とかたちと匂いがある。

 女子寮にいたことがある。隣の部屋に太っちょの女の子がいた。茶色の髪に強いパーマをかけていた。光のない目で廊下を歩いていた。あるとき、寂しさから私は彼女の部屋を訪ねた。部屋にはベージュの壁を埋め尽くすように中森明菜の巨大ポスターが二枚並べて貼ってあった。部屋と呼ぶにはあまりに狭く、むしろ独房に近かった。畳一畳のスペースにふたり並んで体育座りをした。太っちょの女の子はだぼだぼのオレンジ色のトレーナーを着ていた。私は胸にUCLAの文字がプリントされているくすんだ色のTシャツとデニムのズボンをはいていた。ふたりともあまり喋らなかった。黙って「少女A」を聴いた。「スローモーション」だったかもしれない。窓際に寄せた座り机の上に白磁のマリア像がひとつ置いてあったのを思い出す。


 ともだちと鴨川シーワールドに行った。シャチのプールがあった。複数のシャチが泳いでいた。シャチのひれは狂ったように真っ黒だ。あるいは文学的に緑色だったと書いてもいい。プールの周りにはぐるりと観客席。席はほぼ埋まっていた。スタッフのお兄さんが「みなさん、立ってください」と声をはりあげるので、観客たちはいっせいに立ち上がった。
「みなさん、僕とじゃんけんをしましょう。負けたひとは座ってくださいね」。
 私は勝った。勝ち続けた。頬に風を感じた。私は最後まで勝ち残り、じゃんけんの王者となったのである。メダルの替わりにシャチとキスする栄誉を与えられた。プールのへりに立った。頬をプールに差し向けると、プールから一頭のシャチが跳ね上がり、私の頬にキスをくれた。岩のようにでこぼこしたキスだった。


 誰にでも悩みのひとつやふたつはあるだろう。私にも悩みがある。悩みは夜空の印象を構成する月に似ている。夜が更けると、悩みは私の宇宙でいきいきと白い光を放つのだ。月は少しずつかたちを変える。月は瞬時に拡大し、また縮む。
 悩みは藍色のテーブルだ。長方形をしている。どことなく卓球台に似ている。のっぽとちび。神のふたりの子どもが酒を酌み交わす。のっぽはあまり根拠のない自慢話を続ける、ちびはそれをふんふんとさも愉快そうに聞き続ける。ふたりとも目はうつろだ。音楽はない。ない方が静寂が目立つ。結末もない。内容もない。ない方がより人生に似ている。
 悩みはときにひとを狂わせる、おおいに狂わせる。が、それは、悩みは、あるいは悩みの果てになにかを決めたひとの雄姿は、まれにダヴィデ像のようにたくましく美しい。
 薬はいけない。光る悩みをけがすから。

 今宵は想い出と「つくり話」を酒とともに行ったり来たりしている。
 ひとりだ。
 いつものことだ。なんてことはない。


 
 

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