前島賢の本棚晒し【復刻版】25:秋山瑞人猫の地球儀
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本記事はマガジン『前島賢の本棚晒し【復刻版】』に含まれています。連載の更新分と、今後更新される予定の記事が含まれているため、個別に購入して頂くよりお得になっております。
本記事は、電子書籍ストアeBookJapanに、連載「前島賢の本棚晒し」第25回として2014年1月2日に掲載されたものを、加筆修正の上再公開したものです。記述は基本的に連載当時のもので、現在とは異なる場合がありますが、ご了承ください。連載時に大変お世話になりました、そして、再公開を快諾頂きました株式会社イーブックイニシアティブジャパンの皆様に厚く御礼申し上げます。
とりあえず秋山瑞人は全部読もう。
「何か面白いラノベない?」なんて口にするのはそれからでよい。
秋山瑞人。
ライトノベル界――いや現代の日本文芸全体を見渡しても、屈指の技巧を持った書き手だ。『エスケヱプ・スピヰド』の九岡望をはじめ、プロ作家にもファンは多く、また、現在アラサー以上のライトノベル読みのなかには、氏を現人神同然に信仰する、瑞っ子と呼ばれる狂信者も少なくない。当然、評者もそのひとりである。
そんなわけで、読者諸兄に置かれては、評者を信じて今すぐ既刊を全部購入して頂きたい。
いや評者は信じなくてよい。秋山瑞人を信じるのです。さすれば救われる。幸せ。
が……それでも信じられないというのならば……しかたない、まず2巻完結と手頃なコイツから読んでほしい。
舞台は、地球の軌道上を巡る、スペースコロニーと思しき巨大な構造体「トルク」。
だが、それを建造した人類はとうに滅び、今やトルクの主人は、知性を持ち、電波ヒゲで会話し、人類の残したロボットを操る、数多の猫たちだ。
社会制度を作り、物を売り買いし……と人類さながらの社会を営む猫たちだが、壁一枚隔てて真空と接する老朽化した人工世界がその住処とあって、その生活は宗教勢力による厳しい統制下にある。だが、猫たちは死後、空に映る青い星=地球儀に行く……なんて信仰を真っ向から否定し、生身のまま地球に赴かんとする、スカイウォーカーと呼ばれる異端者がいた。
そう。
本書は、文明崩壊後の世界で、猫がスペースコロニーから地球を目指す、宇宙開発小説である……で終われればいいのだが、このスカイウォーカーの三十七代目たる本書の主人公のひとり、黒猫の幽(かすか)が、わりとシャレにならない肉体派だったせいで、話はそれだけに収まらなくなってしまう。
かつてローマ市民たちがコロシアムで剣闘を愉しんだように、猫たちの間でもスパイラルダイブという決闘試合が娯楽として楽しまれていた。そこで、まるで死に場所でも求めるかのように試合を繰り返し、ついにチャンピオンに挑戦する若き白猫がいた。
名を焔(ほむら)。この物語のもうひとりの主人公だ。
ところが幽と来たら、この焔が見事に新たなチャンピオンになった直後に野試合を挑み、しかも科学の力(物理)で勝利してしまうのだ。しかも幽は、焔の命を取らず、かと言って、再試合の要求にも絶対に応じようとしない。
それこそ幽の策であった。
スパイラルダイブのチャンピオンには、その名に相応しい名声と権力が与えられる。その「宿敵」となればチャンピオンその人が敵である自分を、教団の追っ手から守ってくれるはず(「貴様を殺すのはオレだ」の法則だ)。もちろん自分は再試合になど応じない。稼いだ時間で宇宙船を完成させ、地球に旅立つというのがその計画である。
はたして完全にメンツを潰されたチャンピオン・焔にリベンジの機会はやってくるのか……。
「誰も見たことのない世界へ行きたい」
「この世界で一番強いヤツになりたい」
どちらもも、男だったら誰しも願う目標だろう。だが、ふたつの望みが目指す場所はまったく異なる。生きる世界がそもそも異なると言っていい。
天才天文学者と世界チャンピオン、ふつうなら交差するはずもなかったふたりの猫の生き様がぶつかりあう――著者の言葉を借りるなら、ガリレオ・ガリレイVSピーター・アーツという、異種過ぎるにも程がある異種格闘技戦こそ、本書の主題だ。
焔が「一番になりたい」と願った世界を捨てていこうとする幽。
幽が捨てようとした世界で、輝き続ける焔。
あっちが命をかけて求めるものを、こっちは一顧だにしない。言わば、お互いの存在自体が、お互いの全否定であるふたりは、けれども、焔のおっかけの牝猫(メインヒロイン?)・楽(かぐら)を間に置くことで、奇妙な友情を育んでいく……。
「なぜ、遠くを目指すのか」
「なぜ、最強を目指すのか」
これは互いが互いに、そんな問いを繰り返す物語だ。
そして結局のところ、ふたりも、読者も、それに答えなんてないのはわかっている。
たとえ、目指したいと思ったそれが身を滅ぼし、それどころか、周囲の人間を傷つけ、世界の在り方すら危うくするであっても、それでも、一度、目指してしまったらそれはもう自分でも止められない、「呪い」のようなものだろう。
そんな「呪い」に取り憑かれた猫たちの、気高くも哀しいぶつかり合いを描いた寓話。
それが本作だと思う。
読んでみたいと、思って頂けたであろうか。
ひとり新たに秋山瑞人を手に取ってくれる方がいらっしゃれば、本稿は十分、目的に達した。はれるでしょう。こんな駄文を読むのは今すぐやめて、さっそく読みはじめて頂きたい。
それができるのが、電子書籍である。
なので、以下はまったくの余談である。
秋山作品を読めばわかることしか書いていないので、読まなくていい。
それでもグダグダ書き連ねるのは、信者としての意地だ。キャラとストーリーだけ語って秋山瑞人の紹介を終わらせるわけにはいかない、という、ただのチラシの裏である。
確かに秋山瑞人の物語やキャラクター、テーマ性は秀逸である。
だが、それだけ語って終わってしまうのは、宮崎駿監督作品をアニメーションについて一切語らぬまま、テーマだ思想性だと論じてよしとするぐらい片手オチだろう。
宮崎作品の何よりの魅力がその動きにあるように、秋山作品の真の魅力は文体にある。
だが、こんなふうに断言しておきながら、その魅力を言葉で表現するには、評者の筆力はあまりに拙い。
シーンごとに巧みに硬軟を織り交ぜる自在な描写、基本三人称視点なのに突然作家自身がツッコミをいれたりするユーモア、窒息必至の密度で描かれる戦闘シーン、時間の圧縮や場面・視点の大胆な切替などを多用した映像では絶対再現不可な小説ならではの語り、そして不意打ちのように読者の心を射抜く叙情性。
個別にあげればよかったマークがいくつあっても足りず、いくら列挙しても全然、語れた気がしない。
それでもなんとか言葉を重ねれば、その魅力の根源は過剰なまでのサービス精神にあると思う。ただのト書きや単なる説明など一行たりとも書きはせぬという気迫が、ページの隅々に漲っている。あらゆる一行は、次の一行を読ませる為にあり、だから一行でも読んだら最後までやめられなくなる。もはや麻薬的、と言ってよい。
アニメなんかで画面狭しとミサイルが飛び交ったり、あるいは魔女やら豚やら姫姉様が飛んだりする様というのは、ストーリーがテーマがと言った理屈を超えて、見ているだけで気持ちのいい動きだろう。私にとって、秋山瑞人の文章を読むというのは、ほとんどそれと同レベルの、生理的な快感である。例えば本作の戦闘シーンなんてどうだ。
螺旋階段の中腹あたりの、洞だった。
そして、楽はそれを見た。
の電源はもう死んでいるか、今さらそんなものに用はなく、月光の自律系のバスもまだ八割以上が生きている。まだやれる。今度こそ、次こそ奴を追いつめる。不動が動く。苦し紛れに右腕が閃き、微少な針の雲が滅茶苦茶な相対速度で襲い来る。雲の合間にわざとらしい抜け道が四つ。左は罠、そのとなりも罠、その奥も罠、そのさらに奥も罠だが展開速度が遅すぎる。ばかめ、そんなふざけた照準で何を撃墜するつもりのだ。日光に最優先でコマンド、左の
素晴らしい。『E.G.コンバット』も『鉄コミュニケイション』も『イリヤの空、UFOの夏』も『DRAGONBUSTER』も、あれもこれも、そして本書も、何度読み返したかわからないが、その度に快感でビクビクする。変態と言うなかれ。瑞っ子のなかには、評者とおなじような人間はきっといくらでもいる。
小説を読むという行為の根源は、ストーリーでもキャラクターでも設定でもテーマでもなく、活字を、著者の文体を読むということにあること。
文字を読むという行為そのものが快感になるということ。
それを10代の私に教えてくれた作家が、秋山瑞人である。
そんな、この快感を多くの方に知って頂きたくて、こうまでつらつら余談を書き連ねたわけだが、結論は最初に書いた通りである。
もう一度繰り返す。
秋山瑞人は全部読もう。
そして『E.G.コンバット』最終巻をみんなで待とう。
大丈夫、もう十年以上も待ったんだし、今年こそきっとデストロイの季節が巡ってくるさ。
ああ瑞っ子よ永遠なれ。たたえよ秋山瑞人。
この記事を書いてから11年ほど経ち、今や日本から春や秋という季節が消えつつありますが、未だデストロイの季節は来ていません。それでも私は待ち続けます。
(2025年1月3日記)
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前島賢の本棚晒し【復刻版】
電子書籍サイト「ebookjapan」にて2014年~2016年まで掲載されたライトノベル書評連載『前島賢の本棚晒し』を復刻したものです。…
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