常により善い方法を考える
アスリートが運動指導者になる為に必要な学びを提供しているメディアです。
前回記事まで4連続シリーズで「足部の骨を覚えよう」を投稿してきました。
今回は久しぶりに「箸休め」的な、「考え方」のお話です。
見出しなどなく、とりあえずザーっと書きますので、ザーッとお読み頂ければと思います。
「常により善い方法を考える」とは、私自身が仕事をしているうえで大切にしている言葉なのですが、意味はそのままです。
何事も、いつもの手順が最善かどうか、常に疑問を持つようにしています。
運動指導の場面で当てはめれば、いつもの声掛けはそれで良いのかを考えます。
例えば、声のトーンや、言葉のチョイス、声掛けのタイミングが適切なのか、むしろ黙っている方がいいのかなど、改善の余地は無限にあります。
これは指導対象によっても変わってきます。
大きめの声でなければ伝わらないタイプの人もいますが、大きな声には拒絶する人もいます。
指導スタイルは指導対象に応じて変化させる必要がありますから、奥が深く面白いものですね。
更には、提供しているエクササイズそのものに疑問を持つことも大切です。
例えばスクワットなら、何故背中にバーを担ぐのか、フロントスクワットの方がよいのではないだろうか、あるいはダンベルやチューブの方がよいのか、それともいっそ自重で行う方がよいのか、そもそもスクワットである必要があるのかなど、こちらも考える余地が無限です。
そう考えると、自分自身がアスリートとして実践してきたトレーニング手法やドリルのバリエーションが、100点満点のものではないことにも気が付けます。
もっと善い方法はないだろうか、もっと無駄を省けないだろうか、もっと楽にできる方法はないだろうか、もっと…………と、頭を使ってみましょう。
それは過去の否定ではなく、未来を切り拓く為の知恵を絞るということです。
常識とされているものも、時代を遡っていけば非常識だと言われていた時期もありますし、現在非常識とされているものが昔は常識とされていたなんてことも、往々にしてあるわけです。
その考え方のベースとなるのが、基本的な機能解剖学や運動生理学になるのです。
「こう動け」と言われたその動きは、機能解剖学的に理にかなっているのか、その疑問を精査するには機能解剖学への理解が必要ですね。
学べば学ぶほど、こういった基礎学習の「捉え方」が変わってきます。
「あれ?こう思っていたけど実は違うんじゃない?」などと、「考え方」が変わっていくこともまた、往々にしてあるわけです。
その疑問がふと晴れてきたとき、指導レベルは格段に向上します。
今までのやり方だけで、自分が知っている範疇だけで、知識やテクニックをアップデートせずに指導していては、その結果の先には行けません。
選手を見るにしても、一般の方を見るにしても、やはり「より善く」なって頂く為に、「常により善い方法を考える」必要があります。
その「より善い」は、きっと個人差があるので、そこで指導者としてのオリジナリティが出るのだと思います。
それが、個性であって味になります。
味のある指導者になりたいですね。
※写真の神社は、最近私が撮影したものです。
なかなか味わい深い風情です。
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