見出し画像

とても小さな世界(3)

ということで、3つ目です。あと2つ程上げようと思います。

「異性」として見てもらえるって、それってすごいことなんだよなあ、なんて思ったりしている今日この頃です。

前回はこっち。

--------------------------------------------------------------------------------------

 笑いながら何度も酒を飲み、そこら中に白く戻したものを何度となく吐き出しながら、回り始める世界に何度も笑い転げる。巻いてあったペーパーに火をつけて、マリファナを吸い込む。余計におかしくなってくる。次第にナツミを思い出す。それでも笑い声をあげるわけでもなく、天井を向きながら笑う。なんてぼくは弱いのだろう。ドアが開く音がした。
 その瞬間に、目に飛び込んできたのはチハルだった。笑いが止まる。恥ずかしいところを見られた気がした。しゃがんで、チハルはぼくを下に見る。
「みんなは?」
「そろそろ帰ってくる」
「そっか」
 立ち上がろうとするのだけれど、どうにもうまく立ち上がれない。一回、身体が滑る。酒が回りすぎているようだ。がくん、と膝が折れてしまった。気が付くと、何本も酒瓶が倒れていて、自分がみじめな姿になっている。それは、チハルが驚いている顔で分かった。遠くではカラスの鳴く声が聴こえる。白い灰色の無機質な部屋に、まだ青白さを残した空がただしんとして世界を見下ろす。冬がますます近くなってくる。
「どうしたの」
「別に」
「理由もなく、お酒なんて飲まないでしょ」
「大したことじゃないさ」
「嘘」
「どうして」
「シュウさんがそんな顔して笑っているときは辛い時。知ってるよ」
 下を向く。さすがにあのケチャップの容器は捨てられていた。否定も肯定もしなかった。
「どうして知っているの」
「だって、シュウさんは特別な人だから」
「タツは?」
「愛している」
「何が違うの、それ」
 笑いそうになりながら、目からこぼれたのは涙だった。そうだ、ずっとこの涙をこぼすことが怖かった。ふわり、と抱きしめられる。目を閉じて、次第に流れてくるのは涙。こぼれるのは嗚咽。それから、チハルはぼくを離す。ぬくもりが消えて瞬間的に寂しくなると、ぼくの顔を両手で優しく包み込む。
「かわいそうなシュウさん。かわいそう」
「なんで」
「愛されているのに、それに気が付いていないなんて」
「愛されたことなんて一回もないよ」
「嘘。すぐここにいる」
「じゃあ、タツは何なんだよ!」
 声を荒らげてしまう。そう、いつだってそうだ。愛したいと思っていても、その人には最初から先約がいて、愛そうとすればするほど滑稽話にされて。求められない苦しさなんて誰が分かるんだ。上げたくなる咆哮にそれでも入れない壁。まるでテレビで見るドラマと、一体何が違うんだ。誰も悪くないからこそ、ぶつけようのない怒りが湧き出てきて狂いそうになる。ピタッと頬に手が当たる。チハルがほほ笑みながらぼくに語り掛ける。
「慰めてあげる」
 タツたちがまるで大笑いしながら玄関のドアを開ける音が聴こえた。チハルがぼくの手を引く。そのまま階段を上がって、ぼくの寝室へと向かう。めったに使わないからか、脱ぎ散らかされた服以外にはベッドしかないぼくの部屋に。ぼくとチハルはベッドに倒れこむ。
「悲しいことがあったのね」
「あったよ」
「何があったの?」
 まるで言葉だけで体中を愛撫しているかのようで。小さなぼくの世界に心が満たされていく。チハルがいとおしくなっていく。愛おしくなればなるほど、ぼくはどれだけ小さな世界に居るのだろうと思い知る。その愛おしささえ、ぼくは払いのけなければ、世界から旅立つことさえ叶わない。
「わからない。わからないんだよ。どこへ行けばいいのか」
「そんなの、今決めなくてもいい」
「だけれど、もう決めなきゃ」
「今なの?」
「わからない。ただ、なんとなくそう思う」
 とろんとした目から、涙があふれ始める。
「かわいそう。シュウさんもかわいそう。私もかわいそう」
「どうしてチハルはかわいそうなの」
「だって愛されないんだもん。シュウさんからも」
「タツがいるじゃないか」
「あの人はただくれるだけ。私のものは受け取ってくれないもの。私はいるだけでそれでおしまい」
 いとおしい。泣いているチハルがいとおしい。まるでエコーでもかかっているかのように泣いている声が聞こえる。マリファナが効いている。ぼくはチハルを包み込みたくなる。
「だから寂しいの?」
 また、あのとろんした目でうなずいた。また唇が重なる。チハルが愛おしい。どこかでコカインでも吸ってきたのだろうか、下のリビングからは嬌声が聴こえた。そんなことはどうでも良い。チハルが愛おしい。今だけでも、チハルを包み込みたい。ぼくはチハルにまた体を預ける。大嫌いなセカオワが漏れ始める。
 ぼくらは寂しい。隙間と隙間を埋め込みながら、愛しているかさえわからないのにとにかく体を重ね合わせる。幸せそうにチハルは笑い、嬌声を上げる。あっはっはっはと笑いながらそれでも幸せそうに腰を動かす。それなのに、ぼくは涙を流して、息を切らしていた。涙を流しているのに、今この瞬間だけは。何もいらない。そう感じていた。

 涙を流して眠っていたようだった。無機質なベッドルームとは裏腹に、世界からまるで祝福されたように青い空が広がっているのが見えた。チハルは横で眠ったままで。
 なあ、ぼくは透明な色になれるだろうか。
 チハルに尋ねても、眠っている。頭を撫でた。心地よさそうに寝返りを打ったのを見て、終わりを感じた。もう、発とうと思う。意識がはっきりしてくると同時に、足首からふくらはぎまですべっとした何かが当たる。
 両足に黒革のブーツ。チハルのブーツだった。よく履かせたなこんなもの。思考を巡らせると、またチハルのとろんとした目を思い出して、股間がむずついてくる。しっかりと天へと向いている。何かが、爆ぜていくように感じる。どくん、と感じた何か。それは鼓動だった。何かが大きく変化していく。それはぼく自身の意識か、それとも世界なのか。体中がこれまでの自分とは全く違うものに置換されて行こうとしている。ただ、脚だけは一つも変わらないままで。変わる。すべてが。このまますべてを出してしまえば。誰かに見られたら、という恐れやチハルが目覚めたらという恐ろしさより手で感じる快楽に心と体が委ねられていく。
 そのまま猿のようにしごいていると、白濁した液を出して、ぼくはハッとしたようにため息をつく。鏡がそこにあった。しなびたように下を向くペニス、裸に黒いブーツ。ここに来て初めて、ちゃんと自分の姿を鏡で見た気がした。ぼくは濁っていた。どこまでも、汚くて。ナツミのように透明にはなれなくて。チハルのブーツを脱ぎ捨てる。まだ、チハルは目覚めなかった。まるで何か悪いものにでも取りつかれていたかのように、ぼくは慌てて荷物をまとめた。まだ、チハルは眠っていた。だけれど、夢はもうおしまいだ。いや、もうおしまいにしよう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?