Rugir-光をつかむ-④
ドナイレとリゴンドウに敬意を表して。
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そして、第5ラウンド。ヒダルゴが肩の力を抜いたような動きで左のモーションを大きくする。ゆるり、と動く緩慢なそれではなく明らかにギアチェンジしているのがわかる。だが、パレのジャブはモーションが小さいためにことごとくヒダルゴにヒットする。特にボディーへうるさく攻撃を集中させてヒダルゴのジャブをかわし、喰らいそうなパンチをパーリングでカットする。やはりパレがこのまま試合を優位に進めるのか。そう思ったときだった。
パレがボディを放とうとしたとき、するりとヒダルゴの左拳が動いた。ペン! というような音と共に、ジャブがパレの頬を捉えた瞬間だった。瞬間、会場が沸きあがる。闘争本能が沸いてきたのか、すかさずパレが右左とワンツーを返す。ヒダルゴはスウェーで避けると大きく踏み込んで「左フック」を放つ。だが、それが頬を捉えることはない。右手が左フックを捉えていたからだ。しかし、久々のビッグパンチに会場から威勢のいいリッキーコールが戻り始める。
「がっちりとガードしたね」
「勢いはヒダルゴでしょうけど、パレ有利ではありますね」
そう、パレはパンチを見切っている。余計なことをしなければ、このままヒダルゴは手詰まりの状態に陥るはずだ。何よりヒダルゴがどうしていいのかわからなくなっている。一度ヒットしただけで終わってしまい、連続して攻撃ができない。寸断される攻撃に苛立ちを覚え始めれば、やがては攻めが雑になる。本当にパレはディフェンスもうまい。相手の流れにさせていない。一回、顔の前でガードを固める。これだけで流れが途切れてしまう。
「まさに、タッチボクシング」
「ですね」
ふいに思い出したのは、全線全勝で5階級制覇を達成した中量級のスター選手。卓越したスピードと類まれなる反射神経、一見するとセオリーを無視しているように思えるほどのディフェンスの発想。30代後半になっても衰えない体力と、それと同時に円熟味を増してくるディフェンス技術。それを支える類まれなる練習量。実にボクシングを知り尽くしたスーパースターである。
だが、彼のボクシングはつまらないことでも有名だった。激しく打ち合わない分だけ、そのスタイルを「タッチボクシング」と揶揄する者も大勢いたからだ。名だたるビッグパンチャーを完封し、まるで異次元の世界へと旅立たんとばかりに飄々とディフェンスを続ける。だが、彼のボクシングも間違いなくボクシングで、ヒダルゴのボクシングも間違いなくボクシングだった。そして、パレのボクシングは非の打ちどころのないボクシングだった。
それはパレも同様だった。ここまで冷徹なまでに打ち合わないのは、パレだからこそ許された権利だ。
「このキューバ野郎、おもしろくねーよ」
「うちあえよ、この××ー!」
怒りにも似た、パレへのブーイング。だが、パレはそんなことをしたら自分が負けることを理解している。相手を認めているからこその距離。自分がこの試合で勝つために冷徹なまでの判断。私は、彼が賢明な判断をしたと思っている。それがこの試合をヒートアップさせるかどうかは別として。ましてや、ここはアメリカ・ニューヨーク。
「ブーイングが、凄いのね」
「敵地だからな」
ガールフレンドが俺の肩にもたれかかりながら、テレビを見ている。とうにコーラもハンバーガーも食べ終わっていた。外では銃声が聞こえる。彼女は思わず顔をしかめた。
「大丈夫だよ」
頭をぽん、と叩いてあげる。そういえば、彼女との出会いは襲われかけていたところを助けてあげたことがきっかけだった。マクドナルドからの帰りだった。テレビの向こうでは、今にも泣きそうな顔をしているヒダルゴの奥さんがリングを見つめている。日本人らしいが、名前は忘れた。
「なによ。私のほうが泣きたいのに」
「でも、治安が悪いのはいつものことだろう?」
「ここが異常なのよ」
「そうだな」
アメリカへやってきても、血なまぐさい匂いからは逃れられないのか。思えば、タイでも日本でも。きな臭い雰囲気から逃れることができたためしが、俺にはなかった。パレもそうなのだろうか。平穏を得るために、のし上がるために。必要なことは唯一つ。勝つことだけだ。
「勝って、あの世界へ行こうな」
彼女は何も言わずに額を俺の肩に当てて不安そうな表情を隠そうとしない。勝つこと。そうすればきっと、全てが報われる。プロモーターからの理不尽なマッチメークも、馬鹿にならない練習費用も。タイでだまされてファイトマネーなしで戦わされたときも。ビザを偽ってまで戦ったときも。日本で戦えないこの現状でも。ガールフレンドと銃声におびえながら暮らす日々も。勝てば、きっと報われる。安住の地を求めて。いよいよ試合は距離を詰められないで雑になるヒダルゴと試合のコントロールに入るパレと言う構図と相成る。ボディを入れようと詰めるヒダルゴに接近戦すら許さず鋭くジャブを返すと、パレは逆ワンツーやボディアッパーでヒダルゴに攻撃を許さない。嵐の前の小休止かそれともこのまま収束するのか。結末は、いまだ見えない。
これほどのアウェーとなるとは思わなかった。ましてや海を飛び越えた日本で。基本的にボクシングを熱い殴り合いだと思っているファンも多い。故に、打ち合わないでポイントアウトをするスタイルを批判する風潮はかなりある。単純な話である。面白くないからだ。多分”拳闘”と称されていたときと、日本人が好きな格闘家の本質は変わらないのだ。泥臭く、ぼろぼろになるまで戦い抜いた末に手に入れるものこそ美しいと。誰もが「あしたのジョー」を思い出すのだろう。間違ってはいない。けれど、パレのスタイルを批判するのは間違っていると思う。彼は愚直に、彼が勝てる究極のスタイルを信じて戦っている。それを否定してはならない。ヒダルゴがかけたい圧力も、パレの前にはまるで無力。それどころか、両者の間が膠着して3分間同じリプレイを見ている気分となる。
「一気にパレへ流れているね」
「どこまで圧力かけられるかなと思いましたけどね」
「ここまでかな」
「そうですね」
その時だった。カウンターの横に、ドンという音を立てて酔っ払っている男がぼくをにらみつけた。そのにらみからあっさりと目を逸らして、テレビを見る。ラウンドはあと3ラウンドだった。
「おい兄ちゃん」
目を合わせないように。今度はぼくの肩を掴む。
「おい」
振り払う。
「お客さん、迷惑ですからおやめください」
そう言って静止するマスターの呼びかけにも、男は耳に入れようとしない。ぼくも耳に入れようとしない。恐らく、ヒダルゴが吹っ切れない試合をしているせいでいらだっているだけだ。わかってはいるのだけど。ゴングが鳴る。一気にヒダルゴが詰める。プレッシャーに対してパレがたじろぐ。横で男がイライラしているのが伝わる。こちらはただ迷惑なだけだ。
ヒダルゴがパレに入れた強烈な左フックの一撃と、ぼくが一回突き飛ばされてから頬に受けた強烈な一撃はほぼ同時だった。ヒダルゴが苛立ちからか、右手を背中に回しているように見えた。ホールディングが出されないのはホームタウンだからだろうか。叩きつけられる。
歓声が、上がった。
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そういえば、出版しました。良ければどうぞ。