君の秘密になりたい
とにかく、今書けるPK Shampooというバンドへの最大限の敬意をもって、書きました。そんな感じで小説です。
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視線の先にあるものを問われた時に、果たしてどのように答えればいいのか、時々迷う。ただ壁を見ているだけなのか、それとも別に何かが見えているのだとか。いつも決まって遠くを見て、そのたびに俯く。ただ、音だけがまるで電車で流れていく景色のように耳から、目から、のどから流れていく。
観客は手をあげ、空をつかみ歪んだうるさいノイズを、ガラガラになるほど枯れた声で叫ぶようなに歌う。のどは酒で灼け、それでも絞り出すように歌うものだからはそれは酷い歌声で、どれだけのどを傷つけたことだろうか。それでも絞り出すように、ぼくはただ歌い続けている。もう歌えなくなっても構わないと思いながら。初めてギターを握ってから、もう7年にもなる。今もまだ、歌っている。狭くて汚いライブハウスの中で、誰に届くかも分からないまま。
ライブハウスでは色々な人を見てきた。多くの人が流れていく電車や道端にあるコンビニや、おしゃれな飲み屋、そして何にもない空へと向かってそびえたつビルなどで経験しているものと同じように。いつかは大きな舞台でと願い、世間や日常に怒りをぶつけていき、挫け、ぶつかり、涙し、そして散っていった人。より大きな舞台に進んでも、上の世界の波にのまれてしまった人。未来に期待しているのに、今が不安でトイレで嘔吐していた前座のバンドは、もう世界が終わったかのような顔で舞台袖へと引き上げて行った。背中を押されて、ぼくらは舞台へと駆け上がる。
気が付いたらバンドをやっていたぼくは、いつもどこか熱意に欠けていた。一つのライブに賭けているような、この一つで運命が決まってしまうという意気込みを持っている他のバンドたちをどこか冷めた目で見ていた。もちろん、曲は多くの人に聴いてほしいと思う。でも、どんなに頑張ったって歌の本当の意味を誰も理解なんてしてくれないと思うし、心の根っこの部分まで感動させることなんてとても出来ないと思っている。
なんのために歌っているのか。たった一人に届けばいいと願いながら、かき鳴らす。ステージの上から、そのたった一人をいつも探しながらぼくは歌う。だけれど、いつもそのたった一人はぼくの姿を見ていなくて。分かってはいても、それだけがやりきれなくなってからギターをさらに激しくかき鳴らす。それから天を仰ぎ、自分がジーザスにでもなったかのように、両手を広げる。観客は、そんなぼくを崇めるように、手を伸ばす。
「相変わらず目が笑わないよな、ヤストくんは」
ぼくをブッキングしたライブハウスの男は安居酒屋の席でぼくに語り掛ける。笑わない、感情の起伏がない。しばしば言われてしまうのだけれど、そのように言われてしまうたびにぼくは困ってしまう。別にぼくは他人に怒りや悲しみを伝えたくて歌っているわけでもなければ、モテたくて歌っているわけでもない。いや、少しはスケベな心はあるかもしれないけれど、いずれにしてもファンに手を出した前髪までやたらと伸びている便所サンダルのあいつとか、遊びに来ていた読モの女に手を出した爽やか系のあいつとかよりははるかに健全だ、とぼくは思う。
「やっぱり、それではだめでしょうか」
「そんなことないさ」
「そうですかね」
「ただ、いつもどこか寂しそうだね、きみは」
「はあ」
「歌にそれが出ているよ」
「それもダメなんですかね」
「うーん、ダメってことは無いけど……」
「それがヤストの良いところなんですよ」ぼくと男の会話に割り込んできたのはメンバーのニシダだった。「ヤストはそういう曲が得意なんですから」
「なかなか、寂しく無い歌を作れなくて、すみません」
ぼくは深々と男に頭を下げる。
「謝らなくていいんだよ。その寂しさが心地いいんだから」
「心地いい?」
「きっとみんな、歌の中にある懐かしさにひかれて寂しさの心地よさに浸れるんだよ」
「すみません、そう言うことが分からなくて」
男は首を振る。それから言葉を続ける。
「これからも心地よい歌を作ってくれよな!」
笑いながら、そういった。いい人なんだろうな、と思う。頷いてから、微笑んだ。だけれどきっと、目は笑っていない。鏡で表情なんて、もう何年も見ていない。
「まあ、いざとなったらニシダが曲を作りますから」
えーっ、俺かよー。という声で、みんなが笑顔になった。そのまま男は別のバンドのところへと歩んでいく。さっき青白い顔をしていた前座のバンドだ。さっきまで元気のなかった彼らは悔しそうに涙を流していて、そうやって熱くなることができる彼らがうらやましいと心底思った。少しでも自分の歌を届けたい。一人でも多くの人に自分を分かってもらいたい。そのがむしゃらさと熱意が、心から羨ましくて。
解散したのは結局3軒はしごした先でだった。あれからやたらと泣きじゃくるあのバンドに絡んで酒を飲んだり、ツイッターで意味不明な言葉を並べてみたり。誰かが道端で戻しているのを笑っていたり。そうこうしているうちに空が乳白色になったので解散した。いつも思うのだけれど、スマホや財布を忘れないのが率直に言って奇跡だとさえ思う。そのスマホを探っていると、昔の友達からメッセージが入っていた。
周囲が大学を卒業して就職して。中には家庭を持つ同級生がどんどんと増えていく中で、ぼくは今でもライブハウスに生きるしか無くて。今でも夢を追っていることに鼻で笑うものもいれば、励ましてくれる人もいるけれど、そういう口先の奴は大体がライブにさえ来なければミュージックビデオさえ見てくれない。自分を良い位置に置こうとすることで、ぼくにとって有益でもなければ無益でもないことだけを伝えて去って行くだけなのだ。
どうにもそれが気持ち悪くて、大体ぼくはそのメッセージを無視している。ただ、その時に送られてきたそのメッセージだけは、思わず釘付けになるにふさわしいものだった。
『久しぶり。昔お前が暮らしていたアパート覚えているか?大築荘。あそこ、取り壊しになるらしいぞ』
そういってぼくにメッセージをくれたのは、大学時代に良く飲み歩いていた友達のタカだった。タカとぼくは中学と高校が同じだったのだけれど、ほとんど口を聞いたことが無かった。ただ、初めて働いたライブハウスが同じでそれからお互いに口を聞くようになった。タカは音楽に詳しく、ぼくに色々な音楽を教えてくれた人でもあった。音楽を語り、ふざけ合い。そんなことをしながらバイト終わりに夜の街で飲み歩いていたのがとても懐かしい。
『えっ、マジで?』と返答したのに“既読”が付くまでに、それほど時間はかからなかった。それからすぐに『久しぶりに飲まないか?』とメッセージが入り、ふいに「たった一人の人」を思い出して、ぼくは承諾の返事をした。昔のノリで行く場所を決め、昔のノリで待ち合わせ場所も決めて。ただ、今と昔で違うのはメールかメッセンジャーか。
タカはいつも音楽にうるさい男で、ガンズだのローリングストーンズだのレッチリだの。おしゃれなジャズの流れるライブハウスとは違って、いつもうるさいメロディーでイケていなかった過去を塗りつぶすと騒いでは、ライブハウスのうるささを愛する男でもあった。ぼくもタカも高校時代はむしろクラスでは目立たないところにいて、ギターを持ってゆずを歌っているクラスメートをうらやんでいたタイプ人間であったから、そうしたイケていないという自分自身のレッテルを、ドボドボとしたうるさいギターで塗りつぶそうと必死だった。
「あのバンドは必死さはあるけど魅力は無いね。曲もありふれてい過ぎる」
そういってぼくとタカは舞台の袖でタバコを吸いながらバンドを値踏みすることを楽しみの一つとしていた。
「あー、身内ノリっぽい感じだよね」
「元気はあっても歌は下手と。おっと、そろそろ終わりだな」
そう言いながらタカは演者の誘導に戻る。ぼくはステージに出て、楽器の片づけをする。ステージの上は思っている以上に寂しくて、ステージの下は思っている以上にがらんとしていて。それでもステージには夢があると、彼らは本当にそれを信じているのが、無駄に美しいとぼくは思い返す。その無邪気さをぼくは生まれついて持っていなかった。情熱的になるものもなければ、放課後にゆずを歌いながら笑いあうだけのものも無い。そう言えば、あいつは今頃何をしているんだろうか。
いつだってぼくにあるのは、輝こうとする者たちの小さなあがきを眺めることと、承認されない悲しみ。それが言葉にもメロディーにも十分に乗せられないまま、世界は流れていく。ぼくらはまだ言葉にする術を持っていない。
頬杖をつきながら、学生街の安居酒屋でビールを飲む。ああ見えてタカも相当忙しいんだろうと思う。彼が来るのを待っていると、ガラガラという音とともにタカはやってきた。左手に薬指をつけて、アクセル・ローズに憧れていたロン毛パーマもすっかりと爽やか営業マンのそれになっている。だけれど、すぐにタカだということは分かった。いくら変わっても、中身まではそれほど変わらない。右手を挙げると、タカも右手を挙げた。
「お前は変わらないな」
「そうかな。タカもそんな変わらないよ」
「そして、ここもそんなに変わってない」
「確かに」
久しくあった者同士が交わすあいさつもほどほどに、彼はぐるりと見渡す。学生街の安居酒屋は相変わらず学生でごった返していて、奥ではテニサーだか軽音サークルだか分からない学生たちが騒がしく酒を飲んでいる。
「ただ、この街もだいぶん変わったな。こぎれいなアパートとか、おしゃれな店が多くなった」
「うん、だけれどいつも行っていたにんにくのキツイラーメン屋はまだあって、嬉しかった」
「へえ。俺ここら辺は大学卒業してからずっと居るけど、さすがにそっちのほうまでは行かなかったな。あ、今俺さ不動産屋で働いてるのよ」
「それっぽい格好しているもんな」
「だからあのアパートが取り壊されるってこと聴けたわけよ」
「なるほど、そう言うことだったのか。もう跡形もなかったな」
「壊れるときなんて、本当にあっという間だよな」
ビールジョッキをかしゃん、と鳴らしてからぼくとタカはジョッキを空ける。飲みっぷりはさすがに変わらない。そう、壊れるときはあっという間だ。さっきまでスイっとのどを通ったビールは、いつからか引っかかるようになっていた。
「そうだな、壊れるときはあっという間だ」
「コユキの時も、そうだったもんな」
ふいに、タカからその言葉を言われ目を伏せた。タバコに火をつけて、煙を吐く。その過程の中でコユキの面影を思い出していた。
コユキはぼくが20歳の時に道端で拾った女の子だった。その時彼女は15歳だった彼女は激しい雨が上がった夜、その日も確かタカと酒を飲んだ帰りだったと思う。
その夜は最高に気の狂ったバンドがギターを壊し、マリファナだかコカインだかを吸って大騒ぎをかまし、ライブ自体がとんでもないことになってしまっていた。こんな夜にこそ酒を飲みたいもんだとタカと二人で安い居酒屋でビールを3杯くらい飲んだのだけれど、タカがどうも演者を止めた時にできた傷が痛いと言うので、仕方なく帰る。そんな帰り道でのことだった。
一人みすぼらしい格好をして歩いてきていた。雨に濡れて色が濃くなったTシャツ、長い黒の髪。駐車場に止まっていた軽トラックの影から現れたコユキはじっとぼくだけ見据えて、横にいるタカのことなんかまったく気にもかけないままで。最初の一声は何だっただろう。
「お前あの時言ってたよな、早く帰んなって」
ああそうだ。早く帰んな、だった。口から言葉が走り、そのまま帰ろうとした瞬間、確実に時間は止まった。初めて着たニルヴァーナのTシャツを引っ張りながら、ぼくが進むのをとどめていたのを、よく覚えている。彼女からぼくには何も言わなかった。そして、時計は既に1時を回っていた。どんな事情があったのかは分からないけれど、とりあえず家に泊めよう。とにかく本当になし崩し的にコユキはぼくの家へと上がってきた。
そう、ステージ上ではいつでもコユキを探している。どこかで聴いているんじゃないかなんて、淡い期待をまだ抱いている。それは本当に、本当に小さくて淡い期待。だけれど、それは結局幻で。ぼくはいつもそのたびにビールを飲んでから、ステージを音と言葉で汚していく。まだリハーサルなのに、今日もいないという絶望感にぼくは苦笑いする。
歌えば歌うほど、ぼくは東へと進んで、彼女は西へと進んでいくような夕方を思い浮かべて。いつか軽々と迎えに行くよ、探しに行くから待っててよなんて言えるわけもなくて。それはきっと遠い未来の話で。アウトロのギターが涙を流しているように高音で流されて、リードギターのぼくはもだえるようにギターをただ必死に抑えながら弾いている。この瞬間だけが止まって、切り取られればいいのにと思う。
ドラムのカズヤのスティックが壊れて苦笑いしながら、折れた棒で血まみれになりながら叩いている。そう、ぼくの心は今きっと血にまみれている。涙のように透明な色をした血。カズヤの手からは赤い血が流れていた。明日から三日間はダメだなと思いながらそれでもぼくは次第にスローテンポになるアウトロをギターをかき鳴らしながら終わらせる。今日、この曲を歌うことは無い。パラパラと曲を聴いていた客が拍手した。
ドラムのスティックは変えればいいけれど、コユキはコユキ一人しかいない。
しばらくコユキと住むと伝えた時、タカは顔をしかめて辞めた方が良いんじゃないかと言われたのはよく覚えている。冷静に考えれば、15の家出少女をかくまうなんてことは立派な犯罪だし、ましてやあんな安いだけが取り柄のボロアパートで大家に知れたら事だ。ただ、あの時はコユキにどうしても夢中だったことは否めない。何度か恋をしたことがあるぼくでさえも、誰かを想い始めてピークに達しているときには何も見えなくなる。ぼくはまさしく20歳の夏、その感情を今までになくずっと強く持っていて、素性を一切知らない彼女という存在にますます取りつかれていったのだろう。
ただ、タカはそれほどぼくを咎めることは無かった。というよりもいくら咎めたところで無駄だとさえ思っていたのだろうし、あるいはロック好きの彼のことだからそこからロックンロールなことが起きるとさえ感じていたのかもしれない。ただ、達観していたタカがぼくに、こう忠告したのだけはよく覚えている。
「タカ、覚えているかよ。『人の決意を甘く見ていると痛い目にあうぞ』って言ったの」
「うわーっ、あれ、あの時だったか」
タカはまるで自分が学生時代にやったやんちゃ話を思い出すかのように顔を覆って、それから笑った。いささかの照れを隠すために。
「だけどさ、あれも当たっていたよな。今思うとコユキはやっぱり子供だったんだよ」
「うん、子供だった。それも相当ピュアな子供」
「だけれど、ぼくはそれ以上に子供だったんだろうね」
「うーん、そうなのかな」
少しだけ首をかしげたのを見てから、ぼくはタバコに火をつけた。
「今思うと、あれはコユキの彼女ごっこで、おままごとだったんだよ」
タカのその言葉にぼくは賛同も反論もしなかった。ただ、ぼくたちはとことん真剣だったんだろうと思う。あの時のコユキは15歳なりに、何とかかいがいしくぼくに世話を焼こうとしてくれていたのかもしれない。だけれどそれは、結局砂場でやるおままごとと同じようなもの。砂で作ったハンバーグは、所詮砂でしかない。それにぼくもコユキも気がついてはいなかった。
コユキがライブハウスまでやってきたのはいつの夜のことだったか。夜が熱気を帯びてくる時だったというのだけは妙にはっきりとしている。ぼくとタカはその日も飲む約束をしていたのだけれど、入口の前でポツンと突っ立ったままの彼女を見てしまえば、ぼくだってどうしていいか分からなくなる。
「どうしてこんなところにいるんだよ」
「だって、さみしいんだもの」
「じゃあ、ちょっと待ってて」
「ねえ、その前にギューってして」
上目で見ているその姿は、まだまだあまりにも子供だ。それなのに、ぼくは優しくコユキを抱きしめてあげると、待っていてと制した。甲斐甲斐しく迎えに来る彼女は、まるで年上の男を手に入れたという喜びに浸っているかのようで。彼女はぼくしか見えない。ぼくは彼女とそこから見える世界が見えている。だからその違いが徐々に現れてきていた。一緒に住み始めてから1週間もしないうちにコユキはライブハウスに仕事へと行くだけで、事を大きくしていた。テーブルはひっくり返され、雑誌は引きちぎられて大学のノートや教科書さえも危うくなって。とりあえず大学関連のものとかは一通りタカのアパートに預けていたから良かったけれど、とかく投げつけられるものは投げつけられていて。今思うと、壁に傷がついていなかったり、ガラス窓が割れていないことが奇跡のように思えてならなかった。
ただ、それだけ暴れても最後に優しく抱きしめてあげるとそれだけで大人しくなっていたのも、この頃だ。
「あの子危ういぞ」
ライブ終わりに二人でモップ掛けをしていると、タカはぼくの目を見て一言こぼす。
「危うい?」
「お前以上に周りが見えていない。ありゃ子供だぜ」
「15歳ならまだ子供だろう」
「そう言うことじゃない」
「どういうこと?」
「お前、初恋は覚えているか?」
「覚えているよ」
「あの子にとって、お前は初恋より真剣だ」
続きの言葉をぼくは目で促した。
「周りが見えなくなって、大人になんてならなくても良い。この恋さえあればいいとさえ思っている。最悪、死んだってかまわないと思っているくらいには本気だ」
目を見開いて、ぼくはタカの言葉を聴いていた。それは説教でもなく、嫌がらせや悪戯でもなく。本気のトーンの声と目。とうに忘れた初恋はすさまじく淡いソーダ色をしていたように思うけれど、確かに今の彼女からはソーダのソの字さえ感じられない。ただ真っすぐにぼくの愛だけを求めていて、それ以外は何も求めないと言わんばかりにただ彼女はその本能のまま生きていた。
「本気を受け止められるかどうかはお前次第だぞ」
ぼくの肩を軽くたたき、タカはドアを開けた。頷いて、ドアを開けるとヤスト! という声が聴こえて、またぎゅうとぼくを抱きしめる。お疲れ、とタカに声をかけると、左手だけ挙げてバイバイと帰って行く。
手を繋ぎながら、ぼくはコユキと二人で帰る。
「今日ね、今日ね、私ちゃんと散らかしたもの片付けたよ」
「そっか。片付けたか」
「偉いでしょ、褒めて」
「分かった」
そう言って、コユキの頭をなでてあげる。コユキは幸せに打ちのめされたような顔でうっとりとぼくを見て、笑う。大きな目が三日月のように細くなっていく様を、何度見ただろう。
「ねえ、ヤストはギターを弾かないの?」
「どうして」
「きっとヤストは素敵な歌を歌えると思うから」
思わずハッとして、ぼくはコユキを見る。あれだけ無邪気な顔が、とてつもなく綺麗で儚げに見えた。夏の熱気とは比較して涼し気な顔をしたコユキ。それがあまりにも愛おしく感じていたはずなのに、もうすぐに彼女はぼくの手から離れていく瞬間が来ると感じていた。
「ヤストはいつも一人で、寂しそうだね」
ライブが始まる前の舞台袖。ギターのケンはぼくにそう声をかける。ざわざわとしていく観客の声をかき消すように、ぼくをじっと見据えて。
「急になんだよ」
「いや、ふと思っただけさ」
「いけないかな?」
「悪いことじゃないよ。ボーカルは、そうでなきゃ」笑って、ケンはぼくの背中を優しく叩いた。「頑張ろうな」
ぼくは笑う。寂しそうな顔をしているのだろうか。やがて、オープニングが始まる。昔遊んでいたゲームで流れていたラスボスのBGM。ケンは、いつもぼくに優しい。イケている柄シャツを身に付けて、メタルフレームのサングラスをかけたあいつはいつだってクラスの人気者だ。だけれど、彼があとから加入してくれたことがどれだけ嬉しかっただろうか。そして、ぼくは彼のようにいつもコユキに優しくできていたのだろうか。
そう思いながら、舞台袖から見える一番遠くのものを睨みつけた。
「もう、最後のほうはお前も、あの子も死んでもおかしく無かったよな」
酒が空になり、新しくビールを頼むタカがぼくに話す。ぼくはすっかりと食欲がなく、目の前にあるたこわさだけを食べることさえおっくうになっていた。ビールを飲みながら、そうだったっけかと返す。
「でもさ、お前あの頃からバンド組みたいなんて思ってなかっただろ」
「かもね。なんでギターやらないの、って言われた時はぎょっとしたもん」
「でも、それが俺が夢をあきらめた理由でもあるんだ」
「どうして」
「お前が本当に音楽に打ち込んだら、俺は勝てないと思ったから」
悲しそうな顔をして、タカは笑う。ぼくからすれば、よほどタカの方がすごかったのに、それでもタカはぼくのほうがすごいと言ってくれる。
「ちょっとだけお前が誇らしいよ。一緒にライブハウスで働いていた奴が、今もギターを弾いているなんてさ」
「そんなの誇らしくもなんともないよ」
「俺みたいに、事実が嬉しいってだけの奴もいるんだぜ」
苦笑いした。そう、いつだってタカはぼくを味方として見てくれていた。ぼくはただ、まだ暗くて狭いライブハウスで生きているだけだというのに。
「それに、コユキの存在も大きかった。俺、ああはなれないもん。嫁にもさ」
きらりと光った銀色の指輪は、薬指に輝いている。
「最後の最後まで、台風みたいなやつだったよな」
「純粋すぎるがゆえにね」
何とか、辛すぎるたこわさを口に放り込んで、ビールで洗い流した。
もう最後のほうになると、コユキはいつも「私は死ぬんだ」と大騒ぎしてはぼくやタカを困らせていた。バイトへと出かける前に、私はもう死ぬと騒いでぼくを困らせたことだってあった。酷い時には、ぼくの着ていた服をアパートの窓から放り投げた時だった。夕立で庭がドロドロの中、何とか切れる服だけを見繕って出なければならなかったのに、悪びれるわけでもなく、きょとんとした顔でぼくを見ていた。
ぼくは優しく、彼女を抱き寄せた。
「なあ、こんなことする必要ないんだよ」
「どうして」彼女はしゃくりあげながら、ぼくの目を見て話す。「どうして、そんなことが言えるの? 帰ってくるまでにヤストは死んじゃうかもしれない。悪い女にさらわれるかもしれない。タカのような悪い友達がヤストをお酒でべろべろに酔わせてしまうかもしれない。明日には私が居ないかもしれないのに」
悲鳴のような声を出しながら泣きじゃくるコユキを、ぼくは優しく抱きしめた。
「大丈夫だよ。ちゃんと帰ってくるから」
「嘘」
「どうして」
「そう言って、パパは帰ってこなかった」
まだしゃくりあげながらも、涙にぬれたコユキの目がぼくをとらえた。
「はー、やっぱり相当こじらせていたんだな」
「こじらせ、というよりはもう自分のものって感じだよね」
テディベアかぼくは。と思いながら、モップ掛けをしていた夜は、何やらすさまじいことが起きそうな気がしてならなかった。もうすぐそこに破綻の予感が漂っているようにも見えたから。
「ブラックホールに吸い込まれていくように見えたよ」
ラストオーダーで頼んだジョッキの中身が残り半分となったのを眺めながら、タカは話す。いつだったか、コユキはまるで「悪いもの」ばかりを引き寄せるブラックホールのようなものだなと、笑いながらタカは話してくれたことがあった。そして、ぼくはそのまま引きずり込まれていきそうになっていた、と。そうだったのかもしれないと思いながら、あの日のことを思い返す。
コユキとの関係性が終わったのは、何も不思議なことではなかった。極めてありふれた理由だったから。とうとう騒ぐだけ騒いでいたコユキをいつものようになだめて出勤した夜、帰ってみると血だらけになっていたコユキが倒れているのを見つけた。救急車を呼びながら、ここまでだなとため息をついていたぼくには、もう手に負えなかった。
案の定捜索願が出されていた彼女を迎えに来た母親と父親は怒りもせず、ただただ必死に謝ってくれた。こうなることは分かっていたし、面倒を見てくれたことを心から感謝してくれた。だけれど、それだけだった。天を仰いでため息だけ、見えないようについた。病室からは泣き叫ぶような声とぼくの名前を呼ぶ声が聴こえて、だけれど入ったらだめだと思いながら、ぼくはその場を立ち去った。
夜の救急病院でまるで断末魔を聴いたような気持ちになって、ぼくはなんとか彼女と別れた。
もう閉店の時間なので、と言われてぼくとタカは店を出ることにした。あれからぼくは大学でも居づらくなって休学し、ライブハウスでのアルバイトの金を貯めて買ったギターをどういうわけか、今でも大事に弾いている。バンドを組んで歌い始めたのは、いつからなんだろう。
歩いて帰る道すがら、あの時とは違うのに、ライブハウスのバイト帰りの気分で歩いていた。タカはタバコを止めて、ぼくはまだ吸っているけれど。
「大学を休学してからだよな、お前が酒やタバコに溺れるようになったのは」
「そうだっけか」
「なんか逃げているようにも見えた」
「そうでもしないと忘れられないことだってあるだろ」
「そうだな」
あれからコユキと一回も会っていない。音沙汰さえない。もしかしたら今は立派になって、幸せになっているのかもしれない。あるいはあの病院よりももっとひどいところでぐるぐる巻きにされているのかもしれない。コユキの家族とは一度電話をしたきりで、名字さえ思い出すことも出来ない。
「俺、こっちだからさ」
「意外と家、近いのな」
「お前は?」
「向こうっかわ」
「じゃあ、また飲むか」
「だね」
青白い信号が端っこへと渡る許可を出す。歩き出そうとした、その時だった。
「なあ、お前の歌う歌ってどんなよ?」
笑いながらタカは訊く。
「コユキのことばっかりさ」
肩をすくめて返した。少し悲しそうな顔と、同情を浮かべてタカは「まだ寂しいままなんだな」と返した。
ぼくは、返事の代わりに笑ってタバコの煙を吐いて、手を振った。青信号が点滅していた。タカは小走りで走っていきながら、ぼくに手を振った。
暗くて汚いライブハウス。仮に彼女がブラックホールでぼくを暗闇に吸い込んでしまったとしても。こんな歌なんて酒の一つでも飲まなければ書けるわけもない。
ケンのMC中ビールを呷る。どうせみんなぼくの歌の意味なんか分かるわけがない。聴いてしまえばただのくだらない昔の話。分かったところで、意味なんて無い。ぼくは笑ってニシダをいじる。苦笑いしながらベースをかき鳴らすニシダを「滑ってんぞ、しょうもない」とまたいじる。包帯でぐるぐる巻きにした右手を強く叩きながら、カズヤは笑う。相変わらず笑いのツボが分からない男だ、しょうもない。
タカは友達と遊びに来ると言っていた。きっとどこかにいるんだろう。
次が最後の曲だ。一体誰だ。こんなセトリにしたのは。くそったれめ、マネージャーか、あいつぶっ飛ばす。バンドの車でこっち来て、リハーサルに居ないと思ったら部屋の内見と契約しに行きやがって。
ギターの音。悲鳴を上げながらぼくの名前を呼ぶ声がした。思い出が、白黒で蘇る。違う出会い方をしていたら、ぼくらは恋人同士になることが出来ていただろうか。ぼくはマイクを握っていただろうか。ギターを弾いていただろうか。ステージを汚していただろうか。酒を飲み、タバコを吸って歌に狂っていただろうか。
一つだけ言えるのは。きっと、もっと笑えていて。
ドラムがイントロに入ってきた瞬間、ぼくは思わず言葉をこぼしてしまう。ぼくは崩れ落ちながら、膝をついて言葉をこぼした。
「コユキ……」
マイクがぼくの震えた声を拾った。膝をついた瞬間、上を見た。スポットライトがキラキラと光っている。けたたましいギターとベースとドラムの音にかき消されてたぼくの声は、遠くにいるたった一人に届いた気がした。