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Rugir-光をつかむ-⑤

ドナイレとリゴンドウに敬意を表して。

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 一見すると、ホールディングぎりぎりの反則だ。端から見れば、いつも余裕の笑みを浮かべて戦っていたヒダルゴは、それだけ追い詰められている状況にあったということなのか。いずれにせよ、ダウンを奪った。認めた。厳然たる事実。会場中が沸き立った。ヒートアップする会場中に、再びリッキーコールが生まれ始める。
 やっと倒れやがったなキューバ野郎! この××が! 口汚い野次と共に、10カウントがコールされる。それに合わせて、会場中が10カウントを合唱し始める。誰もが、勝利してほしいがために。だが、パレは立ち上がった。何事もないかのように。表情を一つも変えずに。
 ヒダルゴはものすごい勢いでプレッシャーをかけようとする。それに伴って会場のボルテージが一気に上昇していく。猛然とラッシュを仕掛けるヒダルゴに対して、その手には乗らぬとやはりサークリングしながらかわして行くパレ。
「逃げてんじゃねえぞキューバ野郎!」
 だが、パレはそんな野次をまるで受け付けない。冷徹に、勝利を求めて完璧なボクシングを行うだけ。そのためには不用意に飛び込まず、パレはサークリングをしてわざと打ち合わない。体力を回復させるためだけの徹底した「逃げ」。やはり彼は純粋に勝利だけを求めている。

 そうだった。この前の試合でもダウンを奪った。それでもパレは徹底して逃げた。ダウンを奪われたことでダメージを蓄積させないために。アマチュアは3ラウンド。些細なトラブルも大きな失点になりうるが、プロの世界タイトルマッチは12ラウンドもある。1ラウンドくらい捨てても自分自身にとって痛くもかゆくもないということなのか。大胆だが、自分のスタイルに自信がなければ到底できない芸当である。
「すげえ……」
 思わず、感嘆の声を上げていた。おおよそ、勝利できるイメージが浮かばない。彼は間違いなく、これしかないという方法で愚直に勝利を目指していた。ドライでスマートなように見えて、その戦いは実に泥臭い。彼女は腕の中で眠っている。いよいよクライマックスは盛り上がらないことを示していた。

 たたきつけられる音と歓声と。それとヒステリックな声は同時だった。お客さん! という荒らげる声が聞こえて、マスターが必死に制止しようとする。殴り足らない男とどうにか立ち上がるぼく。目は合わせない。背中を強く打って、少しだけ息が苦しかった。
「なんすか」
「お前のノリが悪いからヒダルゴが負けそうじゃないか」
 言いがかりだ。思わず笑いをこらえた。
「なにがおかしいんだよ」
「いいじゃないですか」
「なんだと」
「ぼく、パレを応援しているんで」
 テレビの向こうでは、パレは打ち合わないとばかりにドライなボクシングをしている。男はぼくを鼻で笑った。
「あんなつまらないボクサーを応援しているのかよ」
「ぼくは面白いと思っています」
「面白くないね。あいつは偽物だ。ヒダルゴこそ本物だ」
「あなたが決めることなんですか?」
 誰もがこの二人に注目している。されるつもりなどなかったのに。
「面白いかどうか、本物と思うかどうかはぼくが決めます。放っておいてください」
 ゴングが鳴り、誰もが我に返った。ぼくはカウンターに戻ると、メニューを見る。目に飛び込んできたのは、キューバの国旗だった。また、笑う。
「マスター、ブカネロ一つ」

 ブーイングと怒号が入り混じる中、ファイナルラウンドを控えたアリーナはヒダルゴのラッキーパンチを期待する声が切実さを増していた。直前のラウンドは、とうとうコントロールされ続けたヒダルゴがスタミナ切れを起こしたように見えた。試合前まであれほど楽しげに笑っていたフィリピンの人気者は、覇気がない。11ラウンドの時、体中から何かにすがるようにして必死にパンチをふるっていた残り1分は痛々しささえ感じられた。一方のパレは、まったく疲れを見せずに元気にサークリングをしている始末。消耗ぶりからも、差は明らかであった。
 インターバルが規定の1分を過ぎているようにも感じられる。だが、ゴングが鳴らない。ビーというアラームが鳴らない。露骨な時間稼ぎ。それをアリーナが認めている。すべてのボクシングファンが。

 露骨だねえ。と思わず感じた。笑ってしまう。思えば、タイではリングを水浸しにしたり、テーピングをわざとゆるくしたり。ダウンを奪ってもバッティングと判断されて減点を食らったこともあった。公正なレフェリングを頼むために、採点に金を積んだこともあった。明らかにみぞおちにパンチを当てたのに、ローブローを取られることはざらだった。だが、それはタイでも地域タイトルレベルのランカーでしかない選手たちがやる手法である。それを、世界最高峰のそれも人気者の選手がやるのだから。おかしくて笑ってしまう。
「ねえ、何がおかしいのよ」
「起きてたのかよ」
 これだけテレビがうるさければ起きるかと思う。
「どうしたの」
「昔を思い出してた」
「昔?」
「光をつかむ前かな」
 今も、光はまだつかめないままだが。
「それより、王者が変わるかもしれないぞ。見ておきな」
 俺はガールフレンドにそう促した。

 やっとゴングが鳴る。2、3分は休んでいたような気がしないでもない。目に見えてヒダルゴはペースがダウンしており、いよいよパレが優位に立ったことを証明していた。男はぼくをまだ睨んでいた。
「どうしたんです。あれが本物のやることですか」
 言い返せなかった男は歯を食いしばって、テレビに向き直る。それから、必死に声援を送っていた。最初からやっておけという話である。だが、パレの攻撃にわずかな期待も一瞬のうちに吹き飛んでしまう。プレッシャーをかけてくることを察知していたのか、パレはヒダルゴに対して徹底してパンチを浴びせる。今まで残していたギアを一気にトップまで入れたかのような攻撃に、ヒダルゴは打つ手がなくなる。ガードを固めてロープに詰まったヒダルゴは、ついに捕まる。
 ボディーで顔が上がった瞬間だった。右ジャブをフェイントに使い、強烈な左ストレートを叩き込んだのだ。

 アリーナが静まり返った。

 彼女が驚き、俺はその時が来たことを悟った。
 この時が来ることを、何度望んだのだろう。たった一度あるかないかの大チャンスにここぞとばかりにストレートを叩き込んだ。パンチが届き、ブーイングが静まり返る。

 腰から崩れるようにして、ヒダルゴが倒れこんだ。だが、判定はダウンではなかった。

 スリップというアナウンスに、喜びの声をあげる者と疑問の声をあげる者と二つに分かれた。そして後者は勘ぐる。この試合が出来レースではないかということを。立ち上がらせて試合が再開されると、二つのブーイングが入り乱れた。パレを罵倒するブーイング。それと、公正な試合運営を行わないレフェリーへのブーイング。
 力付くで、パレは会場の空気をもひっくり返した。

「空気が変わったわね」
「分かるか」
「さっきの空気は、フィリピーノを応援する空気」
「じゃあ今は?」
「今の空気は、ここと一緒」
 彼女は、窓の外を見た。殺伐としたこの町の空気を例えて、うんざりとした顔をした。夜は遠くへ続いているが、そこでパトカーがけたたましいサイレンと共に通り過ぎていく。またどこかのクラブでギャングが大暴れしたのだろう。
「最低ね」
 彼女の言葉が、強く耳に焼き付いた。光は、まだ見えない。

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