君の秘密になりたい-アルペジオ
小説です。一生懸命書きました。
PK Shampooの「君の秘密になりたい」と一緒にどうぞ。
夏が終わってしまう音がした。まるで、さあと現れる冷たい風の音。秋の気配に照らされた中で、ぼくはどういうわけだか、エレナと二人で食事をしていた。何かの勉強会での集まりだったか、それとも講演会だったか。
なんてことのない世間話をしながら、ぼくとエレナは食事をしていた。何度か顔を会わせていたぼくとエレナだったけれど、せいぜい会釈をする程度で、それほど会話をしたことがあったわけではない。
「今日はどうでした?」そんな内容の会話だったと思う。だけれど、彼女はそれほどまで答えを出さず、かといってマイナスポイントにもならない程度の答えでぼくをまた悩ませた。そういうことが訊きたいんじゃないんだけれどな。とぼくは思う。
「うーん、やっぱり自分で発信していくって大事だなって」
「なるほど、確かにそうですね」
参った、と思う。会話が続かないのだ。ぼくの頭が悪いからなのかそれとも、既にこの会話の結末がまるで不毛なものとなると分かっているからなのか。
手足のきれいな子だった。髪の毛も綺麗に切りそろえていて、身だしなみもとても綺麗だ。それでいて、きっと賢い人なのだろうと思う。彼女は最後まで自分を出さず、そしてうまくやり過ごし、嘘をつき続けていたから。
にこりと笑いながら、しかし誰ともつるむことのない彼女は、あっさりと勉強会が終わるとそのまま、帰ってしまう。今日も彼女はそうだった。そして、失点も失策もないまま今日も彼女はやり過ごしていく。ファミレスの水は既に氷が溶けてぬるくなっている。
ぼくの耳は他の誰ともつかないような物を持っているようで、声で感情が分かるらしかった。それに気が付いたのは1年も前のことだ。元々人づきあいが嫌いではなかったが、どうにも人と会うと心と身体が消耗してしまうようで、帰ると何もできなくなってしまう。
こうしたことがどうにも多かったのだ。それは単純に人として相容れない人たちとタイミングを合わせてしまうことが原因だった。気が付かないうちに、ぼくは思っている以上に敏感となり疲労を重ねていたらしい。1年前、夏の夕方。何かのレセプションで呼ばれた時、それがすべて分かってしまった。
髪は長くて、明るい色にして華やかなドレスをワンピースを身にまとっている。まるでハワイ帰りのような格好をした彼女は、そのレセプションの中心者だった。名前は確かユミコと言っただろうか。偽りで固められたその姿は、まるでオオカミの皮を被った狐そのものだった。
それでも、ぼくはあの人が気に入っていた。あの人はずっと、最後までその笑顔を絶やさなかったから。あの人なら、最後まで信用できると思っていたから。優れた経営者で、優れた人間性。ぼくは彼女に色々な悩みを伝えていた。友人関係の事、将来の事、そして……モモナの事。
大丈夫? 困っているとき、私が助けてあげるからね。その言葉が嘘偽りで満ちていたことをなぜ見抜けなかったのだろうか。ぼくは、その狐にまんまと食われた。
よく覚えている。モモナが別の男と恋人同士になっていること。ぼくが告白してフラれたこと、そして……それを引きずっていること。そのほかにも色々と。まるで、ぼくがさっきまで悪事でもしていたのをばらすかのように、彼女はぼくの秘密をしゃべる。それはぼくが望んでいたことでも無いのに。
「本当にミトウくんって嫌な子よね」
トイレで席を外していたぼくが真っ先に耳にした、あの人の声。横でうつむいているモモナは横で目じりをぬぐいながら、笑う。同じタイミングでもう一度あの時のあの言葉を思い出す。大丈夫? 困っているとき、私が助けてあげるからね。あの時の声のトーンは心から心配している人が出すトーンじゃなかったんだ。ずしりと響いて、頭がグラグラとし始めた。
きっとあの人は怖い顔をしてそう言ったんだろうな。ぼくには見せられないほど怖い顔をしていたから、ぼくに背中を向けていたんだろう。ぼくがいないところでしかそういうことが言えなかったから、あの人はあんなことを言ったんだ。それが良く分かってしまう。それからぼくは、人の会話している声のトーンで感情を察することができるようになってしまった。いい面もあるのだけれど、それ以上になぜだろう。心からエネルギーがひどく奪われるようになっていったのは間違いのないことだった。
それなのに、目の前のエレナはどこかトーンも変えず、自らのリズムも変えることなくぼくと会話をし続けている。何を考えているのか、全く分からないまま。
「そろそろ出ようか?」
「急ですねずいぶんと」
「うん、忙しいのかと思って」
ふふ、とエレナは笑いながらぼくの横にあった荷物を受け取る。身軽な彼女は、うつむきながら笑顔で歩き始めた。不思議な人だと思う。それはきっと、心の中にある物をまだ開くことができていないからなのかそれとも、それが自然の姿なのか。
別れてからよりこんがらがってしまう。ぼくはそれを思い出したくなくて、ヘッドホンで耳をふさいだ。耳をふさぐようにして、いつものように音楽を流す。もう、夏が終わろうとしているのに、ぼくはまだあの時のことを引きずっている。忘れて前を向けるなら、向いてしまいたいのに。お気に入りのロックバンドは、どこまでも土臭くぼくの耳を突き刺してきた。宇宙にまるでぼくが一人だけ、取り残されているような感じになる。
◆
「マツキさんっているじゃないですか」
エレナはぼくにそのように話す。声のトーンが全く分からなかったあの日からひと月は経っていただろうか。講習会には、何人……いや、何十人という人が集まってくる。マツキさんという男は、その中の一人だった。声が少しだけ明るくなる。きっとエレナにとって、マツキさんはそういう男なのだろうとぼくは思う。
日曜日、ビジネス街のコーヒーショップ。人は少なく、ほとんど誰もいない。彼女は甘いココアで、ぼくはコーヒーを飲んでいた。ふいに、どこかひょろりとした男の存在を思い出す。他人に心を見せないという点では、ぼくやエレナとよく似ていた。マツキさんの話が面白いこと、おいしいコーヒーの淹れ方や趣味。こうしたことを嬉々として話していた。
ぼくはその話を頷きながら聞いている。エレナにとって、その人はきっと唯一無二の世界にいるのだということが良く分かるから。そして、ぼくは彼女の世界にはいないというのが、良く分かるから。それでも、ぼくが会話をしているのは単純にエレナの世界にぼくが入ってほしいから。もっと端的にいうならば、好きだから。どんな結末になってしまうとしても。
だから、せめてもの抵抗をしているのかもしれないと思う。
「ミトウさんは、コーヒー好きなんですか?」
「うん、好きだよ」
「じゃあ、その人が喫茶店開いたら行ってみませんか?」
地元から近いんですよ、とエレナは話す。ぼくの「良いよ」と、その言葉はきっと社交辞令なんだろうと思う。それでも良いと思うんだけれど、きっと彼女にとってマツキさんはぼくよりも優れた人なんだろう。遥かに優しくて、見えない部分でのやさしさが詰まっているんだろう。
何も言わない、何も言えない。まるでテレビの向こうで愛し合っている二人のドラマを見ているかのようで。ぼくと二人、いやこのコーヒーショップにいるすべての登場人物全員とぼく。ぼくは今、間違いなくテレビの視聴者だった。テレビだったらチャンネルを変えることが出来るだろう。だけれど、これは今目の前で起きている事実だ。この場所から移動しなければ、変えることなどできない。
水を飛ばせば、彼女は泣くだろう。マツキさんを侮辱すれば、彼女は泣いてぼくに水を飛ばすだろう。もちろんそんなことはしない。何よりそんなドラマのような展開に持って行ってたまるかという、ぼくの小さな意地しか、ぼくに残されているものは無かった。
「嫌な奴だなぼくは」
小さくこぼした言葉に、エレナは首をかしげる。
「どうしました?」
「なんでもない」
その日は夕方まで彼女と付き合った。それから、彼女もぼくも家へと帰ることになる。夏が終わって、いよいよ秋が近づいてきている中で。夕焼けを見ながら少しだけ遠い目をしてうつむいたエレナ。口を結んだその姿はとても綺麗だった。
帰りの電車、それでもエレナがぼくと会話をしてくれているのはなぜなんだろうとふいに思う。真反対の方向に進んでいく電車の中で、一人になって。未だに彼女からマツキさん以外で声のトーンが上がる会話を聴いた事をぼくは無かった。それでもこうして会っているのを考えると、エレナはとても優しい子なのだろうとふいに思う。ただ、感情を出すのが恥ずかしいだけで。
その時だった。リズミカルにスマホが震えて、ランプが緑色にちかちかしていた。
ねえ、さっきコーヒーショップにいた? メッセージの主は、モモナからだった。彼氏と並んで、何やら幸せそうな顔をしたその姿は、心をざわつかせるには充分過ぎた。
いたけれどと返すと、直ぐに連絡が入る。
やっぱりそうだったんだ! 声をかけようとしたんだけれど、女の子といたからさー、ふっきれたんだね。立て続けに入るメッセージに、ぼくは思わず眉根を寄せてしまう。自分だって納得して吹っ切れた訳じゃないのに。ただただ、彼女とその彼氏が幸せなのが腹が立つだけだったのに。
デート? の問いに、違うけどと返す。でも気になってんだー、いいじゃんと絵文字入りで返ってくる。
デートに見えたの? と訊くと、だって女の子楽しそうだったじゃんと返ってくる。
なんだろう。凄くモヤモヤとしてイライラしてしまうのは。いつもそうだった。モモナは無垢過ぎる。そして無垢であるが故に、人を知らず知らずのうちに傷つけている。きっと彼女はぼくの言葉なんて一言も聴いてやしないんだと思う。まるで、興味のない音楽でも聴いているかのように、右から左へと流れていってしまうんだろう。
「馬鹿にしやがって」
スマホに向かってぼくは吐き捨てるように呟いた。だからこそ、浮かんでくるのは、やり場のない殺意だけなんだ。モモナの声を思い出したくなくて、ぼくはヘッドホンの音量を上げた。イントロのギターがやけにうるさい曲だった。まるでどこかのコンビニのレジ袋みたいに、がさがさした音を奏でていた。
また、リズミカルにスマホが震えた。
「今日はありがとうございました」という、エレナからのメッセージが入っていた。
◆
すっかりと夜が近くなってきた日に、ぼくはたまたまマツキさんと会う約束をしていた。どういうわけだか、彼からぼくを誘って来たのは、素直に驚いた。ぼくが何をしているのか、何を思いどの様な生活をしているのか。どうにもぼくに興味を持ってくれている様だった。
それ程興味が彼にある訳でもなかったが、まあ特別断る理由も無かったので、酒でもひっかけながら話をしよう。という事になった。その日は休みだったし、特別何かすることもない。であるなら、彼の誘いを受けることとしようと思い、夕方に身支度をして外へと出た。家にいても、音楽を聴いては安い酒を空けるだけだ。夏から秋へと変わる夜、外で酔う方がよっぽどぼくには合っていた。
夕方、あれほど長かった青空もこの時間帯はソーダ色をし始める。大きな駅の待ち合わせ場所で少しだけ早く来てタバコを吸っていた。空に、白い煙が漂っていく。暑すぎず寒すぎない。この季節は待ち合わせに最適だ。モモナを思い出していた。そういえばあの時も、ぼくはこうやって待っていたんだっけか。あの日あの時、まだ春さえ見えないあの時に、ぼくは彼女のことを待っていた。あの時は彼女のことで一喜一憂していたな。そんなことを思いながら、マツキさんを一人待っている。
「ごめん! 待ったかな?」と焦りながら、その細身を懸命に動かしながらやってくる彼を見て、エレナはこの人がいいのかとふいに思うのだった。そのままグダグダと話しながら入ったのは、ちょっとしたおしゃれな居酒屋だった。ジョッキのビールとつまみにタコときゅうりの酢の物。皿もグラスも、明るさも。必要以上に明るい場所。この作られた明るさと気取っている空間をぼくは良く知っていた。
まるで野球部のような声で叫ぶ店員が、酒やら食べ物やらを運んでいく。細長い身体のマツキさんにはとても似合わない場所で、ぼくは二人で会話をする。当たり障りのない会話から、ぼくのこと、マツキさんのこと、色々と話す。ただ、どうしても彼がぼくに興味を持っているとは思えなかった。大げさなリアクション、それ以上に語られるさして興味のない自分語り。ぼくはエレナにそういうことをしていたんだろうか、と不意に思う。もっとうまい人はそういうのを演技するのがうまいんだけれど、マツキさんは人と会うことに慣れていないのだろう。どうしてもその動きが、ぎこちない。
何かの勧誘か、それとも単純な興味か。ぼくは眼の光を消して、じっとマツキさんを観察する。その姿はどこかおかしいようで、それでも悟られないようにぼくは顔に笑顔だけを作って、それを隠す。ボールのように弾む会話、それと合わせて感じる明るくて気取ったあの空間。1年前、夏の夕方。何かのレセプション。関心があるふりをして、本当は関心なんてどこにもないその感情。感情が声になって現れる。ぼくは遠い目をしてから、小さくビールを飲んだ。きっと帰ったら、くったりして眠りにつくのだろうと思いながら。
「今日は紹介したい人がいるのよ」
「なにそれ。ネットワーク?」
「そんなんじゃないって」マツキさんはそういって笑う。「きっとミトウくんにとってプラスになる人だから」
「へえ」
「あ、ここでーす」
そして、その遠目に見えたのは。ハワイ帰りかと見紛うような人の姿。ユミコさんだった。
「あれ、マツキくんが紹介したいのって、ミトウくん!?」
「ユミコさんご存知なんですか?」
「知っているも何も、深いお付き合いしていたものね!」
相変わらずのハワイ帰りの姿に、ぼくは思わず辟易してしまう。それでも彼女は、それを読むのがうまい人だ。消さなくてはいけない。わざと目の光を入れてぼくは会釈をした。
「ご無沙汰しています」
「あ、ミトウさんじゃん!」
すると、すぐ奥から意図的に音階を上にあげた声が聞こえる。よりにもよって、モモナも付属品としてついてきている。物じゃないから品は失礼なのか。厄介なことになったなあと思いながら、できる限り表情を消す。馴れ馴れしいボディタッチ、無垢な目、そして子供のような笑顔。だけれどそこにあるのは仕掛け。演技だということをぼくは知っていた。
また、さっきと同じように通り一辺倒の話。そして、ボールのように弾む話と作られた空間。大道具にしても小道具にしても。良くできた空間だと思う。それを演技だとするならば本当に素晴らしい、とも。そう、演技だとするならばね。
本当にミトウくんって嫌な子よね。そんなことを言わなければ良かったのにね、とぼくは思いながらただ会話を黙って聞いていた。その目はどこか冷めている。何かの打算が隠れているように見えるマツキさんとユミコさんを前にして、ただモモナだけ一人無垢でそしてその無垢さが、あまりにも滑稽に見えた。
「ねえ、そういえばこの前女の子とお茶していたでしょ?」
「あら!」とユミコさんはぼくに返す。「ねえ、どんな子なの?」
「マツキさんは良く知っているんじゃないですか」
できる限り表情を変えないで、ぼくはそう返した。
「えー、どんな子なの?」
細身のマツキさんがいつもよりも頼りなさげに見えた。明らかに馬鹿にしている声のトーンで、ぼくは今責め立てられていた。ユミコさんからしてみれば、モモナほど出来た女の子であり部下はいないはずだと。モモナはモモナで、私よりいい女なんているわけないじゃないという顔と、その裏で実は関心のなさそうな顔をしている。マツキさんは所在なさげに、三人の顔を見渡している。
「おとなしくて、いい子そうでしたよ」
「あら、真逆に行ったのね」
「結構はっきりと、物は言うんですけれどね」
「うーん、そうかな。大人しそうだけれど」
モモナとユミコさんは次々にその子のことを言い当てては、自分の彼氏と旦那について語り、ぼくに何かを言い伝えてくる。のだけれど、その子と一緒になる気はあるのかとか、お付き合いするとしたらどうするのかとか。そういったことに興味だけがあり、何やら下世話な話を勝手にして盛り上がっているようでもあった。
どこぞの恋愛指南書だと思いながら、ぼくはエレナの事を思っていた。ふと浮かんだ顔は、どこか子供のようで所在なさげで、遠い目をしてうつむいていた彼女がどこかとても愛おしくて。それが好きだというならば、きっとモモナに抱いていた感情は全く別のものだったということになる。問い詰められながらも、ぼくは笑ってやんわりと彼女たちを右手で否定した。
「人は見かけによらないもんですよ」
その答えに、なぜだかマツキさんが答えた。
「えー、でもミトウくんに合う子は他にいると思うけれどなー」
無垢な声のトーンに、うつむいていただけのぼくの中で、何か目に滲むものを感じた。それからすぐに、それ以上のどす黒い感情が生まれてきた。ダメだ。今のままではマツキを殴ってしまう。ダメだ、今のままでは女に手をあげてしまう。ならば、できることは、きっと一つだけだ。この場所にいないということだけだった。
大きくビールをあおる。それから、力任せにジョッキを叩きつけた。がやがやと華やいでいた空気が、一瞬にして凍り付く。だから嫌なのだ、怒るのは。
「俺帰るわ。これで払っといて」
財布からお札を出すと、ぼくは荷物を持つと制止される前に立ち去った。何やら追いかけるようなそぶりはあっても良いような気がしたけれど、もし来なければそれが答えだろう。何が「大丈夫? 困っているとき、私が助けてあげるからね」だよ。安っぽい嘘はいつだって声から現れるのだ。
一回首を下に向けてから、ぼくは道を歩き出す。振り返っても追いかけてくる素振りさえない。最初から関心が無かったんじゃないか。だったら最初から嘘なんてつくなよ。何通かメッセージが来ているのを、ぼくはすべて無視した。何なら通話までかかってきていた。知るかよ、てめーらの都合なんて。
「くたばれや」
そうつぶやくと、ぼくは前を向いて歩きだす。もう二度と、彼女たちと会うことが無いのを祈りながら、ただただ前を向いて。ヘッドホンから流れた音楽は、どういうわけだかラップだ。今度からシャッフル再生を止めようか、と思案する。何曲か飛ばしてから、結局強くて太いベースの音が印象的なバンドにとどまった。
電車に乗って、大きな駅についたとき。ふと、そこにはエレナが歩いていた。ぼくを見ると目を大きく開けて手を振り、ぼくもぼくで驚いたように手を振った。止まない雨、止まないでもっと降ってという大声が、ヘッドホンから漏れ出していた。
外は晴れている。何かが変わりそうな気がしてならなかった。
◆
「ずいぶん急ですね」何気なく入ったファミレス、だけれどその顔はどこか嬉しそうでもあった。「何かあったんですか」
「今日、マツキさんに会いましたよ」
エレナは表情を変えなかった。それから、口角を上げた。
「あら、お元気でした?」
「喧嘩しました」
「穏やかじゃないですね」
驚いた顔で口を尖らせる。きっと彼女の中には、無邪気な笑顔がきっとあるのだろう。
「今日は良いことありました?」
「映画を見てきました」
パンフレットを見せるエレナ。声のトーンがいつもと違って、少しだけ高い。
「嘘を聴き分ける少年のお話なんですけれどね、最後は本当の愛に気が付くという素敵なお話なんです」
何やら、どこかで聴いたような話だと思う。それから、彼女はぼくを見る。
「その映画が良かったから嬉しそうだったんだ」
「……いけませんか?」
「全然」
「どうしたんですか急に」
「ぼくも、昔から誰かに裏切られた経験とかあったからさ。その時のことを思い出していた」
「きっとみんなにあることなんですよ」
ぼそりとエレナはこぼして、ファミレスの安いビールをゆっくりと飲んでいる。それが、彼女の本音のような気がした。元々お酒はそれほど飲めないのに、何やら悪い気持ちがしてくる。
エレナを見つめていると、なんですか? と笑う。
それは心からの笑顔なのかは分からない。けれど、一つとして穢れのない無垢な笑顔。ふいに、モモナが重なった。彼女から消された無垢なあの姿を、そのまま大切にできるのはぼくではないか、と。少なくても、マツキになんて渡したらいけないと。
「今日はなんでぼくと一緒に来たの?」
「だって、ミトウさん寂しそうだったから」
「ぼくが?」
うん、と頷く。
「あんなにやさしいミトウさんなのに、何か悲しいことがあったんじゃないかなって」
「それだけ?」
「だって、いつもミトウさん優しいじゃないですか」
「優しければ誰でも良かったの?」
「うーん」エレナは考えてから、首を横に振った。「きっと、心を見せてくれた人じゃないとダメだったんだと思います」
また、彼女が微笑んだ。少しだけ、その感情が届いていたことにぼくは驚いた。ふいに、ぼくは目を細めて遠い目をしてうつむいていたあの時のことを思い出す。その目の先にあるもの、その声の奥にあるもの。感情の奥にあるもの。ぼくにまだすべてをさらけ出しているわけではないのだとしても。その秘密を知りたい。今、思ってしまったのだ。
無垢で飾られていないエレナの笑顔。きっと、彼女は自分の魅力に気が付いていないんだと思う。ぼくにはハワイ帰りの作られた笑顔よりも遥かに輝いていて、ファミレスの蛍光灯に跳ね返り、思わず見つめ続けてしまう。
(了)