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鈴木健吾「まるで突風のように」

1kmごとにタイムが刻まれる度に、リポーターからの声が「ありえない…」と絶句してしまうようなトーンに変わっていく。最後のびわ湖毎日マラソン、鈴木健吾選手の記録した2時間4分56秒という記録は決して「3分台が出る」東京マラソンで記録されたタイムではない。
苦悶の表情を見せることもないまま、淡々と力強く。皇子山陸上競技場のゴールテープを笑顔で切るまで、彼はまるでマラソンに新風を巻き起こすかのような軽やかな走りを見せてくれたのだ。
気象条件やコースなどを含めると、2時間8分から9分台を出すことができれば良い、というのが近年のびわ湖毎日マラソンだった。2月末のびわ湖は、気象条件が完璧に揃うことが難しい。昨年は大雨の中で行われているし、しかも大会記録はキプサングが記録した2時間6分台。そのような条件が揃わない時期で「奇跡」と言っても良い条件、そしてペースメーカーの好走、そして多くの選手が叩き出した好タイム。それを制した鈴木選手は決して日の目を浴びてきた選手ではなかった。

陽の目を浴びなかった男は箱根の「異端」だった。

同世代で話題を席巻していたのは、小林高校(宮崎)の廣末卓さんで、綾部高校(京都)の川端千都選手で。鈴木選手はインターハイでこそ5000メートル走10位に入ったものの、高校駅伝でも3年時の記録は1区区間21位という記録に終わり、決して目立つランナーではなかったのだ。
愛媛は決して陸上長距離や駅伝で全国に名を馳せる選手は決して多くはない。出身校である宇和島東高校は、岩村明憲さんなど野球の強豪校として名の知られた学校である。だからこそ、インターハイで10位入賞という活躍を見せたときに「あの選手は誰だ!?」となったのは決して不思議ではなかったのだ。ただ一人を除いては。

それが神奈川大学で30年以上指導を続ける大後栄治監督である。
鈴木選手を語る上で大後監督の存在なくして彼を語ることも出来ないだろう。良い選手が集まりづらい神奈川大学において2度箱根駅伝を制覇させた、陸上界屈指の名指導者でもあり、学生時代から含めると35年以上の指導経験を持つ「研究家」としての一面も持つ、異端の監督でもある。
そんな彼の目に鈴木選手が止まったのは、彼が高校1年生の時。天性のリズム感を持っていると感じ取った大後監督もそこからはスピード勝負。有名になる前に、神奈川大学への入学を取り付けたほどだったから、相当の惚れ込みようである。
とはいえ、1年生から箱根駅伝に出ていたとはいえ、決して彼の成績は芳しいものではなかった。むしろ、順調だったときの方が遥かに少なかった。1年生で6区区間19位、2年生で2区区間14位。ポテンシャルはあるが戦えない。そういう選手だったが、大後監督によると「消化器系に問題があった」というのだ。だからこそ、練習後のダメージが中々回復をしなかったのだと。そこから「大人の体」になっていくにつれて、着実に成長を見せていった。
3年時の2区区間賞は並み居る強豪大学のランナーたちを差し置いての快挙であったし、2017年の全日本大学駅伝では優勝を収めるなど、鈴木健吾選手の成長と同時に神奈川大学は再び箱根駅伝2連覇の時代に匹敵する栄光を事も含め、彼の成長がいかに急激でかつ驚異的なものであったかを物語っている。
そして、2時間4分というネグロイド系の選手以外では最速の記録を持った今でも、彼はまだ成長途上であると大後監督も鈴木選手も理解をしている。

「57番目」から狙う世界

今、世界は2時間1分が最速記録であり、少なくとも2時間3分ほどの記録があって初めて太刀打ちが出来るのが男子マラソンの現状でもある。事実、歴代のマラソン記録を見ても分かるようにケニアとエチオピア国籍以外の選手で歴代記録に名を連ねているのはトルコ国籍の選手がいるだけで(Kaan Kigen Ozbilen)、彼もまたケニア国籍だった。
鈴木選手の居る位置は、世界では「57番目」であるということだ。そして、その他の選手でも世界と戦えるだけのポテンシャルを示しているのは大迫傑選手以外にはまだ日本には出てきていないのも事実である。つまり、まだまだ大きく伸びていく可能性を秘めているということに他ならない。海外での大会、ペースメーカーのつかないレース。まだクリアをしていくことは山ほどある。もっともっと多くの選手が「ありえない…」、そう思わせるほどのレースをしなければならないのだ。

だが、きっと鈴木選手の活躍には驚きがあったはずだ。160センチ台で小柄な選手でも、アフリカ人選手と匹敵するレベルのレースをすることは不可能ではないということを。鈴木選手はそれらを食事も忘れるほどの練習で打ち破ってきたのだ(食事はしっかりと摂ってほしいが…)。そして、今実業団にて花開こうとしている。
愛媛の名も知られていなかった小柄な少年は、今日もまた淡々と練習を重ね、そして風になる。また一切表情を変えることもないまま、淡々と。

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そういえば、出版しました。良ければどうぞ。


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